確かに非常に愉しめたのですけど、……本格ミステリとして面白かったというよりは、サスペンスとして堪能した、というかんじでしょうか。
物語は「ガーディアン」なる超越的存在に守護されている娘っ子のお話を二篇収録、その間に「間章」として、件の「ガーディアン」の変容がさりげなく語られ、サスペンスが大展開される後半へと繋げていくという構成です。
本作の場合、設定の勝利というか、この「ガーディアン」なる特殊な存在の設定「のみ」で物語を転がしているところが、本格ミステリマニアが想像するロジック重視の石持ミステリの風格とは大きく異なるところでありまして、確かに前半の「勅使河原冴の章」では、階段から転げ落ちた野郎の死について推理を巡らす展開も見られるし、後半の「栗原円の章」でも革命戦士を気取ったバカ野郎や失禁少女が、ガーディアンの能力を利用して窮地を逃れようと画策するあたりに石持ミステリならではのロジックを堪能出来るとはいえ、それらもすべてはこのガーディアンという特殊な設定に大きく寄りかかったものであるゆえ、推理のシーンを舞台の前面に押し出してを展開させていくというより、推理はあくまでサスペンスを盛り上げていく趣向のひとつとして機能しているように感じられます。
「勅使河原冴の章」では、まず電車の中でガーディアンに守護されたヒロインに痴漢行為を試みようとした輩の手が公衆の面前で柳龍光状態になるという怪異が發生、――しかしヒロインの能力については何となく噂に聞いていた同僚たちときたら、件の痴漢野郎への制裁に対して「あれってガーディアンがやったんでしょ」とマッタク疑い恐れる様子もなく、シレッとした調子でそうした怪異の存在を受け入れてしまっているところがまず不思議。
普通だったら、掌が反っくり返るなんていう凄まじいシーンを見せつけられれば、それだけでヒロインの超常能力に周囲は恐れおののくのが定石とはいえ、そうしたところは完全にスッ飛ばして、登場人物総てが超常能力の存在をノープロブレムで受容してしまっているという奇妙さは、物語の外でこうした展開を眺めている讀者にしてみれば明らかにヘンで、このあたりの石持ミステリならではの「歪み」を讀者が受け入れることが出來るがどうかで、その後を愉しめるかどうかが決まってきます。
もっとも階段から転げ落ちた野郎の死については、登場人物全員がガーディアンの存在を受け入れているという「前提」がまずその後の推理には必須となるがゆえ、これが長編であれば、このあたりの特殊な設定から説き起こして、讀者を物語世界へと引き込んでいくという小説的なお約束も果たせたとはいえ、本作は中編でありますから、こうした世界設定と讀者との距離などスッ飛ばして強引に話を進めていかないと、後半の推理劇へと進めることが出來なかったというのもまた事実。
ただ、この野郎の死に関しての推理も、ガーディアンという特殊な設定を推理の中に組み込んでいるからこそ映えてくるという風格ゆえ、あまり深く考えずに本編を讀み進めていった讀者はガーディアンの存在に騙されて探偵の推理を受け入れてはしまうものの、日常の謎的な設定から推理を展開させた石持氏の他の作品、――例えば「Rのつく月には気をつけよう」などに比較すれば、本編における推理の趣向は薄味です。このあたりが石持ミステリといえばやはりロジック、というような期待をして本作を手に取った本格マニアにしてみれば不満ながら、それでも「間章」でガーディアンの変容を予感させ、後半へと流れていく構成は秀逸です。
後半の「栗原円の章」もまた、ロジックの冴え、という点では「勅使河原冴の章」以上に薄味で、銀行強盗をキメて逃走中の革命野郎どもが自動車事故で車を大破、郵便車で逃走を図ろうという思いつきから事故現場近くの郵便局を通り抜けて車を奪おうとしたところ、ガーディアンに守護された件の娘っ子に遭遇してしまい、――という話。
娘っ子に遭遇したばかりに、革命バカどもの計畫がご破算となって、どんどん袋小路へとハマっていく展開と、娘っ子たちの視点から描いたシーンとを平行して描きながら、サスペンスを盛り上げていくという趣向にはイッキに引き込まれてしまいます。
ただこれもまた、石持ミステリならではのロジックの見せ場というよりは、サスペンスとしての盛り上げ方を活かしている譯で、このあたりもまた石持ミステリとして讀んだ場合、評価が分かれるところでしょう。
この章でも、ガーディアンに守護された娘っ子の存在をアッサリと受け入れてしまっている友達も相當に歪んでいるのですけど、イキナリこうした超常的現象に遭遇した革命バカの一人も、この能力の存在をアッサリと受容してしまうという展開は明らかにやり過ぎ(苦笑)。
さらにいえば、このガーディアンの能力が如何ほどのものであるかを確かめる為に、ある鬼畜な実験を敢行する革命バカも相當にアレなら、ガーディアンの能力を利用して、この現場から逃走を図ろうと策を巡らす失禁少女もかなりヘン。
最後には鬼畜な実験の末、ガーディアンの利用方法に開眼した革命バカの勝利かと思いきや、最後の最後で思わぬ奇策を見せるヒロインの素晴らしさには思わず喝采、しかしその最後に革命バカが「赦して、甘えさせてほしかった」と呟くシーンには苦笑至極。
もっともそんな鬼畜な実験行為を思いつく革命バカにこんな台詞を呟かせてしまうあたりに、石持氏ならでの歪んだ倫理感を垣間見てしまうのも、石持氏の作品を追いかけてきたファンならではの特権であろうし、友人の超常能力を悪用させる娘っ子には失禁させたりと、「耳をふさいで夜を走る」における「ザーメン臭いコンビニ袋」と同様、性的なアイテムには妙にリアルなディテールを求めてやまない石持氏ならでは拘りぶりに、キワモノマニアとしてはニヤニヤしてしまいます。
しかし石持ミステリならではの歪んだ倫理観は、ロジックを駆使するためのいわば土台のようなものに過ぎないのでは、――なんて考えは、「耳をふさいで」で完全に吹き飛ばされてしまった譯で、本作でも革命バカや失禁少女の考え、さらには超常現象をアッサリと受け入れてしまう同僚連中のヘンテコぶりなど、やはりこのあたりの「歪み」は石持ワールドでは決しておろそかにすることの出來ない、いわば物語の骨格ともいうべきものなのでしょう。
ここまで度が過ぎると、案外、作者である石持氏自身も相當に「歪んだ」性格なのでは、――なんて妄想にとらわれてしまうのですけど、例えばその逆に、登場人物は洋式マナーと騎士道精神を心得た紳士淑女ばかりという原理主義的懐古ミステリを書きつつも、その実、リアル世界では自らが勝手に親分と慕っている当の親分の内心も忖度せずに、重箱の隅をつつくような言葉尻をとらえて名誉毀損とわめき立てた挙げ句、ド素人のブログにネチっこいコメントを自作自演も交えて書き殴るような作家が現実にいたりする可能性もまたなきにしもあらず、な譯で、やはり作品の風格と作者のキャラはまったく別、と考えるのがごくごくノーマルな本讀みの感性というものでしょう。
個人的には本作、「扉は」のヒット以降、言うなればある種の奇抜な「設定」のみで物語を推し進めていく技法に目ざめた石持氏が、そうした「設定」の奇矯さをより肥大化させて描いた作品、というような気がします。いうなれば、「扉は」の副作用、とでもいうか。
と同時に本作は非常に映像的にも見栄えのする物語でもありまして、案外、「扉は」のドラマ化で、原作のドラマ化という悦楽に開眼した石持氏が、次なる映像化を企図して書き上げたのではないかな、なんて邪推をしたくなってしまいます。眼鏡の真ン中を中指で押し上げながら、神妙な顔つきで「……ガーディアンに守護されたヒロイン栗原円はロングヘアの凛とした美少女という設定だから、彼女はさしずめ成海璃子ちゃんあたりがベスト、かな。目の前で死体を前にして失禁してしまう円の友人、奈々子はショートカットだから北乃きいちゃん。これで決まりッ!さっそく光文社の編集者氏を通して村本監督にお願いしてみよう」なんてかんじでブツブツと呟いている石持氏の姿を想像してしまった自分も相當にどうかしているとは思うものの(苦笑)、「大丈夫。私のそばにいて」なんて栗原円役の成海璃子に言われた奈々子役の北乃きいが、モノローグで、
――ダメよ。わたしはおしっこを漏らしているんだから。円の制服まで汚れちゃう。
と呟くシーンは是非とも実写で見てみたいと思うし、ここは光文社の編集者氏に映像化を実現すべく、頑張っていただきたいと思った次第です。
石持ミステリ最大の持ち味であるロジックを物語の結構の中心に据えたものではなく、あくまで推理はサスペンスを盛り上げていくための趣向のひとつに過ぎないという本作の風格をどうとらえるかで、本作の評価は變わってくるような気がします。とはいえ、個人的には非常に愉しめたので、ロジック重視の風格ではなく、石持ワールドならではの毒や倫理観の歪みを堪能したいという方にはオススメしたいと思います。