實を言うと讀了した直後にはちょっとした「不満」があったのですけど、本を閉じて色々と冷静に考えるに、もしかしたらこの「不満」もまた作者である松尾氏の企圖するものだったのカモ、……ということに思い至り、最後には評價がマッタク變わってしまいました。このあたりについては後述します。
物語は、「女子高生限定のアルバイト」というやつにつられて別荘地へと繰り出した語り手の娘っ子は、世話をすることになった不思議少女が「人くい鬼」なる怪物を匿っていたことに超吃驚、さらには殺人事件まで発生して、――という話。
序盤において、語り手と娘っ子、そしてこの人くい鬼との出逢いや、過去に遡ってこの怪物の曰くが語られていくところなどはファンタジー風で引き込まれてしまうのですけど、中盤からはそうした流れを断ち切るように、古典原理主義者が小躍りしながら随喜に噎び泣くようなコード型本格の結構を踏襲した展開へと流れていくところにやや唖然。
ミステリーYA!はYA世代向けとあって、自分が讀んだ限りではベタベタなコード型本格の結構を持った作品というのはあまりなかったような印象があるゆえ、正直、本作におけるこの展開にはかなり吃驚させられました。
別荘地で死体が見つかり、それが消失、――という「謎」が示された後、件の怪物のとあある能力と、死体消失の「謎」が推理の過程で連關していくところがひとつの見所となっていて興味深いものの、この怪物の存在を知らない大人たちは死体消失という「謎」よりも犯人捜しの方に超夢中で、煩雑なアリバイの検証が繰り返されるところはやや冗長、……というか、このあたりはやはり古典原理主義者のみがコード型本格を明確に踏襲したその風格に噎び泣くべきで、自分のようなボンクラの本讀みは軽くスルーしてしまっても没問題、後半の展開を追いかけていくのに大きな支障はありませんのでご心配なく。
寧ろ本作の際立っているところは、推理によって犯人が明らかにされた後の展開にありまして、この犯人が判明したシーンから、語り手がその「謎」の眞相を顧みるところに注目、でしょう。
以下、激しくネタバレしてしまうので、文字反転します。
この物語では、件の人くい鬼の怪物は子供にしか見えない、という設定になっているところがミソで、犯人が判明した最後、今まで怪物の姿を見ることが出来ていた語り手の前で、怪物は姿を消してしまいます。
で、この事件が終わった後、この怪物が消えてしまった「謎」に關して、語り手は以下のように回想するのですけど、
けれども興奮していたわたしの見まちがいかもしれないし、別の可能性もある――モーリスが消えたのではなく、あの瞬間にわたしが大人になって、見えなくなっただけなのかもしれないのだ。
特にここでは後段の、「消えた」のではなく「わたしが大人になって、見えなくなった」という反轉の構図が秀逸です。作者はこの解釈を「眞相」として補強するため、その前に絶妙な伏線を用意しており、彼女が面倒を見ることになった娘っ子の母親のことを語りながら、真犯人が明らかにされるシーンでの出来事と、その後の病院での出来事を回想するのですけど、そこでは、
……その人たちのみんなの思いがあの時のわたしに乗り移り、芽理沙という子供のために叫んでいたのだ。
あの時、手術室の扉の前で、わたしは芽理沙を自分の子供だと思っていた。突き進もうとするわたしを後ろから抱きかかえる大門をその子の父親だと思っていた。
と語っています。ここから、自分はもう誰かの世話になるばかりの子供ではなく、娘っ子を守ろうとする「大人」になったのだ、という意識を持った瞬間、彼女はモーリスという怪物を見ることが出来なくなってしまった、――というふうに讀める譯です。
この反轉の構図を推理によって暗示させるという技巧によって、語り手である主人公の成長譚という本作の主題を際立たせるという作者の企圖に自分は大いに感嘆したのですけども、しかしこのエピローグの後半、長い時を経た後の後日談として、娘っ子の口からこの怪物の消失という「謎」の眞相を語らせることによって、上に述べた反轉の構図によって示された解釈の余地を作者は消し去ってしまいます。
一讀したとき、自分はこの娘っ子の語りに對して、ミステリ的などんでん返しとしては評價出来るものの、これは逆に成長譚としての本作の主題をぼかしてしまうもので、ちょっと感心できないなア、……と感じたのですけど、よくよくこの自分の心の中に蟠る「不満」を突き詰めてみるに、初讀時とはまた違う感慨を抱くに至った次第です。
上において語り手が示した「わたしが大人になって、見えなくなった」という「推理」が正しいとすると、怪物であるモーリスがまだこの物語が終わった後も存在しているということになる。逆にいうと、長い時を経たあとに後日談として娘っ子の口から語られる「眞相」は、成長譚としての本作の主題を退けるというリスクを冒しながらも、その一方でモーリスという存在を物語の外、――即ち讀者の脳裏からも消し去ってしまうことになる。
さらにこの點を突き詰めて考えると、この物語の内にある語り手と、この物語の外にいる讀者とを對處させつつ、最後の最後にモーリスが存在するという可能性を周到に消し去ることによって、物語の内側としては語り手の成長譚としての主題は退けられつつも、それによって作者は、讀者にたいしてモーリスの存在するお伽噺という子供の世界から現実の世界へと立ち返ることを促してみせたのではないか、――すなわち、この最後のどんでん返しによる「眞相開示」によって、この物語は「語り手の成長譚」から讀者に「成長」を促す物語へと轉化する。
だとすると本作は、この物語が終わった後もモーリスが未だ存在する、というファンタジーとしての可能性を、最後のどんでん返しによって退けてしまうというミステリ的な技巧によって、ファンタジーとミステリ、語り手と讀者を對處させながら、讀者に強いメッセージを残すことを企圖した物語と見ることが出来るのではないか、――とここまで考えて、モーリスが今も存在する可能性を退けることで物語の余韻をも消し去ってしまったことや、語り手の成長譚としての「讀み」を最後に否定してしまったところへ「不満」を感じてしまった自分のボンクラぶりと、またおそらくはそうした不満、――特にモーリスの存在の可能性を否定することによって必然的に生じる余韻や叙情を取り去ってしまったことへの不満に對して、その不満の所以について讀者にその意図の推理を促そうとする作者の企みを知るにつけ、本作に對する評價はマッタク變わってしまいました。
古典原理主義的な視點から、本作における死体消失のトリックだけに着目して、「使われているブツもありきたりだし、ミステリとしてはお粗末」なんて印象を持たれた方は、寧ろその眞相開示の後に用意されている作者の周到な企みについて考えてみることをオススメしたいと思います。ある意味、ミステリ的な技巧によってミステリーYA!というこのシリーズのねらいを達成したという点では非常に印象深い作品といえるカモしれません。