第二回「幽」怪談文学賞短編部門大賞受賞作。受賞作「あちん」を含む一冊ながら、全体としては連作短編の構成になっているところが面白い。収録作は、土地にまつわる怪談話から悲哀を交えた怪異の因業が明らかにされていく「あちん」、妊婦が泥を吐く、という生理的なおぞましさを添えて不条理な呪いを因果譚へと解体する手際が際立つ「タブノキ」。
実話「系」怪談の名の通りに、電話ボックスにまつわる怪談話に語り手の因業が悲哀の物語を紡ぎ出す「2時19分」、過去の忌まわしき記憶と現在を交錯させて語り手が怪異の世界へと呑み込まれていく課程を描き出し、いよいよ連作短編としての結構を露わにしていく「迷走」、幽霊武者行列として怪談的な風景を描き出し、語り手の決意を描いて物語を締めくくる「もうすぐ私はいなくなる」の全五編。
巻末に収録されている選評が非常に印象的で、「小説」「怪談」という二つの言葉をキーワードに、怪談文藝における「怖さ」「うまさ」というものを色々と考えてしまうのですけど、本作は実話「系」怪談的な素材を存分に活かして怪談としての風景を描きつつ、怪談という文藝が持っている「怖さ」よりも、小説的な「うまさ」を際立たせた作品、というのが個人的な印象、でしょうか。
そんななか、「怖さ」というか「不気味さ」を味わえるのが表題作の「あちん」で、「オホリノテに、影を喰われる」というその土地の噂話を起点に、その噂話の地場を描いていく物語かと思わせつつ、次第次第に展開の軸が平山ワールドの住人めいた不気味爺の物語へと傾斜していきます。冒頭からの期待を裏切るかたちで進んでいくこの展開が醸し出す居心地の悪さと、主人公が怪異に巻き込まれていく課程がネッチリと描かれていくところが秀逸です。
また「あちん」という奇妙な言葉の発音と、この土地の逸話から当然イメージされる意味を先読みしつつ、その想像をいったんは語り手に託して語らせて、怪異の源泉をその土地にあるものと思わせながら、最後の最後にその怪異の因果を人間関係へと繋げていくという意表を突いたオチもいい。
ただ、こういうかたちで、余剰を残さずにすべての怪異を因果譚へと纏めてしまうことによって、何というか、不気味さや怖さが半減してしまっているような気がするのは自分だけでしょうか。勿論、この因果譚へと収束することによって、小説としての骨格はより明確になり、さらには選評に東氏が指摘されているような「読み手の琴線を揺さぶる情感の表出」の巧みさが際立つ一編に仕上がっていることは確かながら、このあたりは「怪談」における「怖さ」をどう味わうか、というところによって、読み手の評価もまた變わってくるのではないかな、という気がします。
全編、この「あちん」のように、語り手をこの物語の世界の中心に据えて、その人間關係から怪異の曰くが明らかにされていくという結構が次第に明らかにされていくのですけど、そうした流れの中でも、後半の「迷走」は、語り手の過去の記憶と現在進行形の怪異を平行して描いていく結構が光る一編です。
かつての親友の軽い台詞から始まり、やがて語り手がとある怪談スポットでの出来事とネクラ娘を思い出すにつれて、物語には不穏な空気が流れ込んでいく展開もステキです。最後に忌まわしい記憶が語られ、語り手が怪異に取り込まれていく宿命であることを明かした後に最後の、「もうすぐ私はいなくなる」という強烈なタイトルで読者の興味を強烈に・拙んでみせるという巧みさ。
それでも作者の筆は「怖さ」よりも、怪異の因果を明らかにしながら、語り手の人間関係からこの世と常世の連關を語っていくことに重心が置かれてい、連作短編としてのラストもそういう意味では非常に清々しいものへと纏めています。このあたりにも「怖さ」よりは、情感を描き出す「うまさ」が光り、鼻息も荒く「怖さ」を求めて頁をめくって最後まで辿り着いた怪談マニアがやや肩すかしを喰らってしまうような気がなきにしもあらず、――とはいえ、本作の小説としての「うまさ」は認めない譯にはいかず、このあたりの風格をどう評價するか、――怪談ファンそれぞれに色々と感じるところがあるのではないでしょうか。
個人的には、何となくなのですけど、作者は怪談の読み手を完全には信頼することが出來ないのではないかな、という気がしました。というのも、怪談においては、「語らない」「描かない」という引き算の技巧において、その余白を読み手に委ねる、というところが必要だと個人的には感じているのですけども、情感を描こうとする作者の筆は思いのほか饒舌で、例えば「迷走」において語り手が待ち合わせ場所に向かう展開にしても、また「もうすぐ私はいなくなる」の武者行列を描いた怪異の情景にしても、余白から立ち上る怖さを減じてでも、語り手が常世へとダイブしていく情感をタップリと書き込んでみせよう、という作者の企圖が強く感じられます。
さらには最後を語り手のああした決意によって締めくくってみせた結構から、こうした情感を重んじた風格はこの作品世界を描き出す戦略としては必要なものであったと考えることも可能であるし、そう考えると、これこそが現代の怪談としての風格なのか、或いはこれはこの連作短編の世界の語り手の性格付けに起因するものなのか、――という点に關しては、次作によって明らかにされていくのかもしれません。
それと「あちん」が描かれてから、この連作短編の構想へと成っていったのか、それともはじめにこの物語世界のイメージが作者の頭の中にあって、そこから「あちん」が書かれていったのか、というあたりにも興味があったりするのですけど、実際のところはどうなんでしょう。