「十角館の殺人」「消失!」を再讀して以降、そろそろ新本格の作品を色々と讀み返してみようかと考えているのですけど、その一方で、やはり件の「新本格バッシング」のことが氣になっておりまして、その前にまずは本作を讀み返してみた次第です。探偵小説研究会の編集によって、「数々の名作を生んだムーブメントをコンプリート・ガイド+ミニ作家事典」とある通りに、新本格を知らないビギナーも安心して手に取ることの出來る一冊ながら、二十人の作家の手になる特別寄稿が収録されているところにも注目でしょう。
ジャケ帶に「第三の波 新本格ミステリ15周年!」とある通り、今から五年前にリリースされた本作にも、やはり當事のことを振り返っての発言というのは見ることが出來まして、例えば折原一氏曰く、
「新本格」という名前がまだ定着していなかった頃、いわゆる新本格をイギリスの新本作と対比して愚弄する人たちがいた。新本格など、そもそも存在しないような評論を書いた人たちがいた。彼らは今、この太くなった潮流をどのように見ているのだろうか。
「愚弄」という言葉で語られているとあれば、やはりそれは相当のものだったのではないかなア、なんて、當事はミステリ業界なるもののの存在も知らず、ワクワクしながら新本格の新作を片っ端から讀みあさっていたボンクラの自分は考えてしまいますよ。ただ、實をいうとバッシングがあったのかなかったのか、その実態はどうだったのか、ということよりも、マニアの方が今でも新本格の作品を當事と同じように「つまらない、くだらない」と感じておられるところに今は愕然としている次第でありまして。今回はこのあたりについて述べてみたいと思います。
本作では新本格も含めて、一九八七年にリリースされた作品から二〇〇二年までのものが紹介されているのですけど、例えば問題作ともいえる「翼ある闇」の魅力について岩松氏は、
つぎつぎ廃棄される奇拔な推理、前例のない見立て殺人の眞相、複数の探偵の推理合戦の意表をつく着地点、伝奇小説的な時空のスケール、露骨にオタクっぽいディテイル、とあらゆる趣向のメーターが最後まで振り切れっぱなしだ。過剰搭載された奇想が、インフレを起こす直前に奇蹟的な表面張力でぎりぎりの形を保つ。まさにタイトロープ的ウルトラCで、日本ミステリの流れを変えてしまった衝撃的作品。
と書いています。「過剰搭載された奇想が、インフレを起こす直前に奇蹟的な表面張力でぎりぎりの形を保つ」という表現を目にしてフと思い出したのが、「CRITICA」の第二號に掲載されていた「探偵小説批評の10年――花園大学公開講座」の中で、稲生平太郎氏がクイーンの作品をビルに喩えて述べているくだりでありまして、これを紹介している巽氏の発言を引用すると、
国名シリーズを想定して、クイーンの作品を論理のビルにたとえて、「下から見るとちゃんとして見えるけれども正面からは歪んでいる」と書いていたんですね。論理のひとつひとつは辻褄があっているけれども、全体として変なものを作っているんじゃないかと。
この後、巽氏は「端正な本格」という言葉には反撥してしまう、と述べつつ、
個々の作家ごとの本格のイメージに向かってどんどん書いていけば、どこかで歪んでくる。その人なりの歪みを抱えてくるだろうと。
この稲生氏が語っているクイーンの作品の奇妙な外觀は、例えば現在森下氏と議論されているアレクセイ氏が「本格ミステリに内在する二つの方向性」で述べている、本格ミステリの「非常の美」にも通じるところがあるように自分には感じられ、「パズル的な、論理的確実性指向」と「「ルビンの杯」的な、意外性指向」という二つの相反するものを調和させようとする無謀な試みが本格ミステリであるとすれば、その相反する二つを交えて組み上げられた構築物から「歪み」や「亀裂」が生じるのもまた必然、――なんて考えてしまいます。
「翼ある闇」という作品が持っている「奇想が……奇蹟的な表面張力でぎりぎりの形を保」っているところから生じるであろう歪みや亀裂、あるいはクイーンの作品の論理が「全体としては変なもの」に構築されてしまったがゆえに生じる歪みや亀裂。あるいは本作で山口雅也氏が「もろともにミステリを壊してしまうようなもの、世界すらも解体するような小説」という言葉で語っているような、「ミステリを壊してしまう」という企圖の元に書かれたミステリという作品が持っているであろう奇妙な外觀と、そこから生じる歪みや亀裂――、それらに違和感を感じるか、或いはその「歪み」や「亀裂」をもった奇妙な風格もまた愉しめるかどうかというのが、結局は讀み手の感性によるものであるにせよ、その「歪み」や「亀裂」を指摘して「くだらない、つまらない」と一蹴してしまうというのは、あまりに勿体ないのではないかなア、と感じる次第です。
寧ろ自分などは、何故、個々の作品が「歪み」や「亀裂」を生じてしまったのかというその「何故」というところに興味津々であるがゆえ、作品の結構や歪みや亀裂を生じさせるにいたった技法や技巧にどうしても目がいってしまいます。
新本格に違和感を感じるとすれば、この相反する二つの方向性をかなり強引に交えようとした結果、その亀裂や歪みが殊更に目立ってしまっているがゆえであり、その試みが例えばクイーンの作品の論理などと同様の指向性を持って構築されているのだと考えれば、やはり新本格もまたミステリである、という見方も可能ではないかなア、とか、或いは時にその亀裂や歪みが生じるのを百も承知で魁偉な作品を構築しようという過剰な試みもまた、新本格から現代本格へと通じる特徴ではないか、とか、このあたりで色々なことを考えてしまうのでありました。
本作では、この他にも佳多山氏による綾辻作品の紹介が素晴らしく、「時計館の殺人」の「人工美と幻想趣味とが融合したラスト」、或いは「霧越邸殺人事件」の「合理的な解明の道筋を裏付ける非合理な暗合の数々」という表現にニンマリですよ。このあたりを頭の隅におきつつ「十角館」を再讀してみれば、この作品が決してショッカーだけではない、「暗黒館」へと連なる「合理的な解明の道筋を裏付ける非合理な暗合の数々」もまた大きな魅力の一つであるというところも見えてくるのではないか、なんて考えたりするのですけど、――しかし、問題はここからですよ。
ミステリマニアであれば、本作や、或いは笠井、巽、千街氏と言った方々が新本格の魅力や讀み方について論じている論考批評に目を通されていない筈はなく、例えば初讀時に「くだらない、つまらない」と感じても、プロがその作品の魅力を分析評價しているとあれば、とりあえずプロの「讀み」の技法を確認する意味でも、自分が「つまらない、くだらない」と感じた作品を再讀してみるというのは、これまたマニアとしては至極当然のことでしょう。
しかし本作のようなプロの評價に目を通し、作品の再讀をしてもなお已然として、当時と同じように「つまらないし、くだらない」という感想を持たれてしまうということは、……これって要するに、評論家の言葉がマニアにはマッタク響かなかった、ということではないでしょうか。
巽氏や千街氏、佳多山氏といった素晴らしい讀み手がその作品の技法を解き明かし、魅力を伝えようとも、それらの言葉が讀者に届いていなかったとすると、――實はこれって相当に深刻な問題なのでは、なんて頭を抱えてしまいます。こうなると「よろしいよろしい。本格無理解者である彼ら批評家の言葉がマニアにとってはまったく意味をなしていなかったとすると、私が主張してきた「本格評論の終焉」もこれで証明されたということになりますね。やはりディープなミステリマニアの方はちゃんと分かっているということで安心安心、グアォドバババアアァ!」なんて、その当のマニアというのが新本格をコキおろしていたこともスッカリ忘れて小躍りする本格理解「派系」作家の首領の姿が想像されてかなり鬱(爆)。
果たして批評家の言葉はマニアに「だけ」届いていなかったのか、それともそれはミステリの讀み手全てに對してまったく意味のないものだったのか、――彼らプロの批評家の樣々な讀みの技法から多くを学ばせてもらっている自分としては、勿論前者であると主張したいし、「十角館の殺人」などの新本格の作品が今も多くの讀者を魅了しているという現実を鑑みれば、やはり新本格の作品をコキおろしていたマニアの「讀み」に問題があるのではないかなア、なんて考えてしまうのですけど、実際のところはどうなのか、――自分としては當事を知る方々の証言がそれを明らかにしてくれることを期待したいと思います。