先日「盲目の鴉」を讀んでから、ちょっと氣になった言い回しがありまして、それを確認する為に他の長編を讀み返していたのですけど、目的のアレが本作にあったことを見つけてニンマリですよ。これについては後述します。
「盲目の鴉」や「針の誘い」「危険な童話」などの大傑作に比較するとやや小粒ながら、それでもモチーフの赤を鏤めて、土屋ミステリのテーマとしては定番の、「血」を大胆にフィーチャーしてみせたところが素晴らしい。
艶っぽい奧様の不貞とそれを疑う旦那、という構図が明確に示唆され、失踪した妻は間男と一緒に逃避行を果たしたのか、それとも何者かに殺されたのかというあたりをハッキリさせないまま連續殺人へと発展していく展開は、何だか旅先での謎女の描寫を行っているところや、とぼけたユーモアを添えているあたりも含めて火サス風。
新本格のマニアックに過ぎる風格に拒絶反応を見せる年季の入ったミステリマニアとて、いくら、マニアックではないと言っても、こういった一見すると旅情風味を添えた風俗推理フウの見てくれに「これが二時間サスペンスドラマだったらさア、犯人役が船越栄一郎か萩原流行で眞相がモロ分かりの駄作じゃン。ゲラゲラ!」なんて感じてしまいそうなところがアレながら、個人的には、寧ろ樣々な偶然の連鎖を凝らして事件の結構を構築しつつ、それと對比させるかたちで事件の發端となる犯人の宿命を際だたせているところがツボでした。
死体がとある偶然で発見されることによって事件が表沙汰となり、それによって犯人のトリックが違和感とともに暴かれていく展開や、まったくの偶然によって事故現場に居合わせていた人物の存在と、偶然お色気婦人に出會ってしまったことによって死にフラグが立ってしまうボーイ、さらには偶然見ていたテレビによって推理の絲口を天啓として授かる千草檢事の定番推理など、何よりも構築美を愛するマニアからすれば、ご都合主義ともとられかねない事件の結構ながら、上に述べたような視點で眺めると、最後の最後に明らかにされる眞相と、その宿命の重さがより際だってくるという重厚さが土屋ミステリの眞骨頂。
ネタが「血」で、不貞というだけに、ノンシリーズの短篇に匹敵するほどの、御大らしいエロが大量投入されているところも、キワモノマニア的には見所でありまして、可愛そうなモジ男君が戀人の娘っ子と一緒に、事件の發端となる新聞広告を見つけるシーンでは、
少女のムキ出しにした二の腕と、少年の裸の肩口とが、かすかに触れた。すると、電流のような衝撃が、少女の血管の中を走った。活字が黒い点の羅列になったとき、少女は、読むことを断念した。そのかわりに、少年の胸を流れおちる一すじの汗が、少女の目をとらえた。浅黒く、ひきしまった皮膚が、濡れて光っている。活字にはない美しさだった。
と「芥川龍之介の推理」にも通じる少女のエロ心を描いてみせれば、ふるいつきたくなるような美貌の人妻にドキドキしてしまうボーイの内心をトックリと描いてみせるところにも拔かりはなく、
母親のようなあまさと、母親にはない美しさが、少年の心をひきつけるのだ。美世が動くたびに、ほのかな香料が匂った。美世が顔をよせて話しかけると、少年の頬は、そのあたたかい息吹に赤らんだ。
また艶っぽい奧様とタンゴを踊るシーンでは、
「ふるえているのね」
あたたかい息が、おれの耳もとへ、そう囁いた。唇が、おれの首すじにふれた。その感触は電撃のように、おれの全身を走った。
「牧さんは、キスしたことがあるの?」
おれは、体を押しのけるようにして、そばのソファに坐りこんでしまった。動悸が、手にとるように分かった。
しかしこのモジモジぶりを弄ぶような魔婦ぶりが實は、……という仕掛けは單純ながら、讀者が登場人物に抱いていた先入觀をガラリとすり替えてしまうようなものでありまして、こういった人間心理を翻弄してみせる犯人がその實、宿命という軛から逃れることが出來なかったという結末によって、犯人の悲哀をよりいっそう鮮やかに描いているところも秀逸です。
で、その氣になっていたという言い回しなんですけど、「盲目の鴉」の中で、千草檢事が奧様とのおのろけを披露してみせる場面がありまして、妻の美しさにボーッと見とれていた千草檢事が「どうかなさったんですか」と妻に聞かれて、「いや、なんでもない」なんてはぐらかし、その後は結婚してから数ヵ月後のことを語る回想シーンとなって、『わたしを好き?』『そ、そんなことは――』『じゃ、お嫌い?』なんて詰問された検事が、しどろもどろに、ぼくは役者じゃないからそんな氣障なセリフがいえるかい、みたいなかんじで、
奇妙な意見を述べたてて、検事は妻の追及をかわそうとした。そのとき、暗い部屋の中で、妻の浮かべた表情を、検事は見ていない。しかし、次の瞬間、『いいわ、でも、私は好き、好きよ!』と縋りついてきた妻の体を、検事は力いっぱい抱きしめていた。そんな思い出も、今は、淡い記憶の中だけにある。青春は、すでに遠い――。
で、この決め台詞「青春は、すでに遠い」って他の長編にもなかったっけ、というかんじで手に取ったのが本作で、予想通りというか、期待通りというか、本作にも検事と情熱的な妻とのお惚氣はシッカリと描かれておりまして、以下、引用すると、
検事の妻は、結婚してからも、ある期間、彼を「泰輔さん」と呼んだ。それを嫌った検事が、「夫婦は友だちじゃない。あなたと言うんだ」と、これもテレくささをこらえて命じたことがある。そのとき、検事の妻は、「泰輔さん、大好きさん」と、おどけた声を残して逃げていった。青春は、すでに遠いのである。
このあたりのレトロ感とともに、背中がムズムズしてしまうエピソードを愉しめるのもまた、土屋ミステリの醍醐味でありまして、キワモノマニア的には要注目、でしょうか。
事件そのものと眞相、さらには犯人の慟哭がやや間接的に、アッサリと描かれているあたりが、強烈な悲哀と抒情を喚起する作品に比較すると小粒ながら、それでもファンであれば樣々なところで御大らしさを感じさせる風格が堪らない佳作、といえるのではないでしょうか。