日本推理作家協会・編のこのシリーズは讀んだことがないのですけど、千街氏が編纂序文を書いていることと、タイトルに用いられている「不思議」という言葉に惹かれてゲット、本格ミステリも恐怖小説も分け隔てなく収録されているところが素晴らしく、特にホラーの風格の短編に好みのものが多かったような氣がします。
収録作は、死神が雪の山荘にやってきた傍観者ツラをしながら連續殺人事件の記述者となる結構に極上の騙しを凝らした伊坂幸太郎「吹雪に死に神」、満員電車でゲスな痴漢野郎を被害者としたコロシに奇天烈生命体の娘っ子が切れ味鋭い推理を開陳する石持浅海「酬い」、冷徹な鬼畜野郎の独白が惡魔主義的な怖気を誘う恩田陸「あなたの善良なる教え子より」、ナスカの地上絵の謎に駄洒落を交えた推理が脱力を惹起する鯨統一郎「ナスカの地上絵の不思議」、女ライターが壮絶なゴミ屋敷の暗黒面に呑み込まれる柴田よしき「隠されていたもの」。
平山センセの「メルキオール」を彷彿とさせる鬼畜ネタを穏やかな雰囲気で描きつつイヤ感溢れるオチを添えた、朱川湊人「東京しあわせクラブ」、十八番の記憶ネタにすこし、ふしぎな仕掛けで反轉を凝らした高橋克彦「とまどい」、悪夢的な情景に平山ワールドの筆致が冴える、平山夢明「オペラントの肖像」、惚けたキャラを描きつつ、小刻みなどんでん返しの果てにイヤっぽい幕引きが冴える、道尾秀介「箱詰めの文字」、石毛キャラに扮した語り手のファンタジー、宮部みゆき「チヨ子」、メリケン・ハードボイルドの風格にアレネタをブチ込んだ強引さがタマらない山田正紀「悪魔の辞典」、ツンツン娘がダメ幽霊の悩み相談に応じる奇天烈ぶりにシッカリとした謎解きを添えた米澤穂信「Do you love me?」など、全十五編。
石持、鯨、松尾、道尾、米澤と本格ミステリらしい謎解きを堅実に添えた作品もあるとはいえ、今回一番引き込まれたのが柴田よしき氏の「隠されていたもの」でありまして、女ライターがゴミ屋敷を訪ねてその主の婆のインタビューを敢行、しかしその屋敷の中には、……という話。
ゴミ屋敷の中に散らばっているゴミの描写も相当にウップ、オエップで、この汚らしいディテールも堪らないものの、屋敷の中に踏み込んだ主人公の女が次第次第に暗黒面へと堕ちていく展開が圧巻で、このあたりのイヤ過ぎる雰囲気は、例えば筒井康隆「鍵」あたりを思い浮かべていただくと、何となくそのイメージが・拙めるかと。
イヤ話では朱川氏の「東京しあわせクラブ」もなかなかの逸品で、作家センセが「しあわせ」なんてほのぼのした名前のクラブの例会に誘われるもその活動の内容たるや實は、……という話。苦笑を誘うネタも含めてクラブ員から色々なエピソードが語られるのですけど、このなかにさりげなく「本気」のブツが紛れ込んでいるところを伏線に、後半はイヤっぽい真相が明かされていくという結構です。
ほのぼのした雰囲気の中にちょっとした不気味さを添えているという點では、宮部みゆき氏の「チヨ子」も素晴らしく、ピンクウサギの着ぐるみにとあるネタを添えているあたりがすこし、ふしぎなお話ながら、この語り手がふと目にした「黒くてふわふわしていて、何か気持ちの悪いもの」の扱いがイヤな感じで、ホンワカした風格の中に、さりげなく不純物を添えてながら逆にその不気味さを際だたせているところはかなりツボ。
高橋氏の「とまどい」も、十八番の記憶ネタなのですけど、今回は氏の記憶ネタの恐怖小説を讀んでいる人ほど最後の真相のひねりに感心してしまうのではないでしょうか。ぞっとするようなイヤな終わり方ではなく、敢えてそこからずらしてみせた幕引きはやや意外。
本格ミステリらしい作品の中では、痴漢野郎が殺される石持氏の「酬い」がいい。満員電車の中でのコロシを推理する結構はいつもながら、探偵の奇天烈なキャラ造詣と、この性格を反映させて、明らかにされた推理の「真相」が投げ出されてしまう皮肉ぶりに、石持氏のひねったユーモアセンスを垣間見た次第です。
意外なところでは、道尾氏の「箱詰めの文字」は、突然現れた泥棒と語り手との惚けた會話に氏らしいユーモアを感じて讀み進めていくと、後半になってじわじわと隠されていた惡魔主義が顔を覗かせるという展開がツボ。前後半の風格の差に、小刻みな反轉を添えて騙されていると、最後の最後には前半のユーモアを一掃するような真相が明かされて何とも鬱な幕引きとなるあたり、キワモノマニア的には堪りません。
本格ミステリ的な謎解きと真相開示でもっとも愉しめたのが、米澤氏の「Do you love me?」で、幽霊が見える娘っ子が悩み相談を請け負って、何故ダメ男の幽霊は殺されたのかを探っていくのですけど、ダメ男の話すエピソードの数々から奇天烈な要素を抽出して、トンデモな真相を明らかにしてみせるところは堅実至極。非常識な設定だからこそ生きてくる奇天烈な真相と、巧みな語りに引き込まれてしまいます。
で、今回は本作のタイトルにある「不思議」という言葉に、個人的には大注目でありまして、編纂序文に千街氏曰く、「本書『不思議の足跡』は、二〇〇四年から二〇〇六年にかけて発表された、広い意味での幻想的・超自然的要素を帯びた短編十五作を収録したアンソロジー」で、「ホラーや幻想小説、あるいはSFといった括りは外し、敢えてタイトルに「不思議」という言葉を用いた」と述べています。ジャンルという枠組み、さらには二項対立や二者択一を排する試みから、「不思議」という言葉を用いているところに、本格のみならず幻想ミステリにも造詣が深い千街氏らしいセンスが感じられます。
時に「不思議」という言葉は、最近、達人巽氏も使っておりまして、CRITICA第二号に収録されている「探偵小説批判の10年――花園大学公開講座」からちょっと長いのですけど、引用すると、
それと、もう一つの謎の力というのは、そういう技術的な意味の力ではなく、読者が本当に不思議だと思うような謎は一体作り得るのかということですね。密室殺人とか見立て殺人どいうものは現代ではお約束になっていますから、「あ、出たな」とは思いますが、それで本当に不思議だとは恐らく思わないのでは。むしろ日常的な謎を扱ったものを読んだほうが、かえって「不思議だ」と思う瞬間はある。それはある意味当たり前のことで、派手ではあっても紋切り型で踏襲されたものであれば、それは謎ではあっても不思議ではない。逆に、地味ではあっても不思議なものはある。ではその不思議さどは一体何なのか、ということですね。その方向から考えていく必要もあるでしょう。
「それは謎ではあっても不思議ではない」と、「謎」と「不思議」という二つの言葉を巧みに分けつつ、本格ミステリの結構においては主要な要素のひとつともいえる「謎」について語ってみせているあたりは流石です。さらに巽氏は、同様の趣旨の内容を「メフィスト」の「連載予告「森の奧の祝祭(仮題)」について」の中でも語っておりまして、
たとえば、密室殺人はいまも人々の心を捉え、密室だというだけでわくわくする読者を獲得し続けているのだろうか。解かれるべき問題としての、あるいはトリックを導く前提としての密室なら、いまもつつがなく生きている。だが、私たちがそこに不思議を感じているかといえば大いに疑問である。問題、謎、不思議。本格推理小説の中で生じる出来事にもっともふさわしい形容は、一体どれだろう。私は一読者として、また批評の書き手として、そのことを考えてきたが、この小説に着手するにあたっては、理屈抜きで「不思議」にくみしようと決めた。そのうえで、不思議とは何か、いついかなる場合にそれがあらわれるのかを具体的に考えること。とりあえず、それが「方法」だといっておくしかない。
ここでは「謎」と「不思議」という二つに加えて、さらに「問題」という言葉を添えています。自分がこの文章を讀んだ時には、「問題」を「推理パズル」に、そして「謎」を「本格ミステリ」に、さらに最後の「不思議」を「モルグ街以前の小説」に対照させて、もしかしたら巽氏は、小説としての多様な「讀み」を否定して一つの解答しか用意しない「問題」に拘泥する推理パズルを脱するのは勿論のこと、すでに長い年月の中で陳腐化してしまった「謎」――それを結構の主要な構成要素に据えた本格ミステリからもさらに遡って、「モルグ街」以前のところから「不思議」をその構造の中核に据えて、まったく新しい形態の小説を書こうとしているのではないか、――なんて大興奮してしまったのですけど、このあたりは連載が待たれる「森の奧の祝祭(仮題)」によって、巽氏の真の狙いが明らかにされるのではないか、と期待しています。
件の「容疑者X騒動」の、やれ本格ミステリの定義だ、だの、その定義を満たしていないからこれは本格じゃない、というところからは遠く離れて、「謎」や「不思議」といった平易な言葉を駆使しながらミステリを語ろうとする強い意志に、ボンクラの自分としては、千街氏と巽氏の凄さ感じてしまうのでありました、……って話が大きく脱線してしまったのですけど(爆)、そんな譯で、敢えて「謎」と言わずに「不思議」とタイトルに据えた本作に収録された作品群から、巽氏の言う「これからのミステリの傾向」を讀み取ってみるのも吉、でしょう。