漢字二文字の簡潔なタイトルにチベット仏教ネタということから、ついつい「弥勒」のような、正に壮絶としかいいようのない凄まじい物語をイメージしてしまうかもしれません。実際は全編に飄々とした軽さを持ったお話で、語られている主題や世界は相当に重いものの、その重さを前に出さずに敢えて軽妙な風格に仕上げているところが素晴らしい。
あらすじを簡単に纏めると、奇蹟によって復活した坊主の木乃伊がビンラディンになるまでをロードムービ風に綴った物語(意味不意。でも讀めば分かります)、というかんじでしょうか。
チベットの寺院にあったパンチェンラマの木乃伊が突如復活して、チベット人の小僧と一緒にトラックに乗ってあちこちを旅する――というのが全体の結構ながら、そこにパンチェンラマの非業と中国共産党の横暴ぶりといった政治テイストも添えているあたりは「弥勒」などにも通じるものながら、この主人公となる小僧と木乃伊坊主との軽妙なやりとりが本作の軽い風格を際だたせています。
そもそも奇蹟によって復活した活仏のアレっぷりが相当に激しく、女を見れば乳揉みはデフォ、さらには尼を見れば尻を撫でるというエロ野郎ぶりを発揮して、好物のモモをガツガツと食らうという、活仏というよりは餓鬼とでも言わんばかりのアレ過ぎるキャラでご登場、というところからして笑わせてくれるのですけど、現在のチベットの窮状を目の当たりにするや活仏というよりは活動家のような自意識に目覚めてからが本当の物語の始まりです。
前半はトラックに乗ってあちこちを行ったり來たりという、いかにもヌルい展開が續くとはいえ、作者の語りの巧妙さもあって飽きさせることはなく、あれよあれよと言う間に中盤までを讀み進めてしまうと、そのあとに中国政府のとある大計画が明らかとなり、活仏と小僧たちはそれを阻止するために立ち上がります。
そもそも活仏となって甦ったというパンチェンラマの怪異は謎としてではなく、作中では明確な真実として話が進み、そこに絶妙なユーモアと軽さを添えているあたりの作風が、何だかマルケスかラシュディかといったかんじで堪りません。
前半は、復活したパンチェンラマのキャラが活仏とはほど遠いアレなため、果たしてこの木乃伊に宿った魂は本當にパンチェンラマなのか、という謎で物語を引っ張っていくのかと期待してしまうのですけど、案外、そういった予想を裏切って展開される中盤の流れにやや戸惑ってしまう方もいるかもしれません。
インドへの亡命という中盤までの展開は言うなれば、後半に續く活仏の覚醒へのさわりに過ぎず、中国共産党への批判も交えて展開されていく中盤からは、件の大計画にアレが使われているところを伏線に、何故主要キャラのパンチェンラマが復活した木乃伊の活仏なのかというあたりが次第に明らかにされていきます。それにしてもこのオチはちょっと意外で、自分はスッカリ活仏が身を賭してこの計画を阻止するものだと予想していたので、この痛快な幕引きには少しばかり驚いてしまいました。
「弥勒」とは違って讀者に終始緊張を強いるような作風ではないところがいかにもノベルズらしいとはいえ、それでも例えば同じ少数民族であるウイグル人とチベット人がツマラないことで小競り合いをしてみせるところや、チベット救済に群がるセレブを皮肉ってみせるエピソードなどで、通底する重い主題の周辺にも蟠る問題をシッカリとすくいあげてるとともに、日本人の取材クルーがちょっとした計らいを小僧たちにしてみせるところなどの演出も洒落ています。ロードムービー風に流れる構成とはいえ、このあたりの小さな逸話を鏤めて讀者を飽きさせないところは流石です。
ジャケ裏に添えられている篠田氏の言葉が秀逸なので、一應引用しておくと、
十六年ぶりのノベルズである。そして最後のノベルズである。
小説家志望の一公務員であった私の原稿を読み、本にすることを約束してくれた編集者、宇山日出臣さんが昨年亡くなった。「美しく壮大な謎を」という宇山さんの言葉は、未だに小説を書くに当たっての羅針盤のような役割を果たしているが、実際のところ、十六年かけて、講談社ノベルズからも宇山さんの求めた物からも、遠く離れた所にやってきた。その遠く離れた地点から、読者と、故宇山さんに、この作品を発信したい。トリックも探偵も出てこないが、「謎」は仕掛けた。解けることのない謎ではある。
本作では「逃避行」のような本格ファンもニヤついてしまうような仕掛は不在のゆえ、ここで言われている「謎」という言葉に、宇山氏の言う「美しく壮大な謎」の「謎」を期待してしまうと肩すかしを食らってしまうカモとはいえ、「消失!」や「聖女の島」の復刊本やまほろ本と並んで本作のような作品が同時にリリースされるというところに講談社ノベルズの懐の深さを見たような氣がします。「弥勒」や「ゴサインタン」の重厚さを求めるとアレですが、ノベルズらしい愉しみどころをシッカリとおさえた佳作と言えるのではないでしょうか。