両作ともに「メフィスト」で讀了濟だったので再讀ということになるのですけど、表題作「リベルタス」については謎の提示の技法についてなど違った讀み方も出來たりして愉しむことが出來ました。
収録作は、御大の十八番ともいえる挿話も添えて、切り裂きジャックも真っ青の猟奇殺人の謎の真相を解き明かす、二十一世紀本格の傑作「リベルタスの寓話」と、日本を舞台にベロンベロンに泥酔した俳句爺さんが密室状態の部屋のなか、ピラニアに顔と手を喰われた死体で見つかるという、これまた奇天烈な謎にクロアチア人の悲哀を描いた「クロアチア人の手」の全二編。
まずは何と言っても表題作「リベルタスの寓話」でありまして、その強烈なトリックに初讀時には吃驚してしまったものの、今回の再讀では寧ろ現場から持ち去られていたあるブツに絡めた謎解きの技巧に感心しきり。
語り手は例によってハインリッヒで、いきなりNATOから御手洗の出動要請を受けるところから物語は始まるですけど、ボスニアで死体の内臓を抜かれて中には飯盒だの虫籠だのライトだのがブチ込まれていたという、イギリス人であればジャック、日本のミステリマニアであれば名古屋の妊婦切り裂き事件を思い浮かべてしまう陰惨さと猟奇性が素晴らしく、このあと物語は唐突にとある一人の女性のエピソードへと突入、この悲惨に過ぎる女性の挿話のなかで、件の猟奇殺人のキモとなる内臓取り出しモノ詰め込みの犯行へと繋がる「リベルタス」のことが語られていきます。
本作の場合、怪しい容疑者がいるものの、しかしその人物はある理由から絶対に犯人ではあり得ないというところが本作最大の見せ所で、この人物がどうやって嫌疑の外へと逃れ得たのかというトリックは、御大曰く「ここに現れてくる医学の知識は、これはかなり古典的なもので、二十世紀からよく知られていた」とは言うものの、こちらの知識に明るくない自分としては、初讀時にはとりかこの二十一世紀本格ド真ん中をゆくトリックの激しさだけで完全にノックアウトされてしまいました。
ただ、今回改めて讀んでみて気が付いたのは、この二十一世紀本格的なトリックは寧ろ後ろに退いていて、御手洗の関心はもっぱら「誰が犯人」で「その人物はどうやって嫌疑の範疇から逃れ得たのか」ということよりも、死体から持ち去られたある部分に向けられています。それ故に後半で大展開される御手洗の推理も専ら、そのあたりのホワイダニットに費やされているが為、この二十一世紀本格のトリックが最後に開陳されるところはやや唐突にさえ感じられます。
しかしこの死体の部位の持ち去りの謎を全面に押し出して、件のアリバイ崩しにも似た謎解きを後退させた結構は、未だ実作の多くない二十一世紀本格の現状ではアリかな、という気もします。
ここで比較してみたくなるのが、同じく今年にリリースされた二十一世紀本格の傑作、石崎氏の「首鳴き鬼の島」でありまして、「首鳴き」の方は長編、そして「リベルタス」は中編という違いも含めて、本格ミステリにおける「推理」に對するアプローチは大きく異なります。
「首鳴き」では、後半で大開陳されるこの二十一世紀本格のトリックの伏線として、中盤、ややクドいくらいに専門知識が讀者へ提示される譯ですけども、逆にこれが、この作品の持っている風格の軽さと相容れず、この部分だけが乖離してしまっているような印象を与えているように感じられるのですが如何でしょう。
フェアプレイというものを考えれば、読者に当然期待される知識としては「あり得ない」専門知識がそのトリックの根幹を担っている二十一世紀本格の作品では、このあたりをまず謎解きの前にシッカリと、時にはクダクダしく語っておく必要が出てきてしまう譯ですけど、そうなるとそれがまた物語の流れを削いでしまうやもしれず、実作ではこのあたりの立ち位置が作家によって異なってくるのではないかなア、なんて「首鳴き」を讀んだ時には感じたのですけども、「リベルタス」と比較すると、この「推理」「フェアプレイ」、さらには物語が本来持っている風格や結構など、色々な部分で違いが見られて興味深いと思いました。
「リベルタス」では、中編より少し長いフウの結構に纏め、さらに二十一世紀本格のトリックは寧ろ後ろに退かせることによって、このあたりを巧みに回避しているようにも感じられます。長編を支え得るネタながらあえてそれをこの長さにブチ込み、推理と謎解きの部分では寧ろ内臓取り出しのハウダニットに傾けて、フェアプレイよりは真相の開示される瞬間の「驚き」へと注力させた結構ながら、これが「アトポス」級の長編であったら、この二十一世紀本格のトリックの扱いがどのようになったのか興味のあるところです。
また本作ではオンライン・ゲームというよりは何だかセカンド・ライフっぽいノリの「二十一世紀の科学」が謎を支える動機の側面で大きくフィーチャーされ、これが日本とボスニアという遠距離をイッキに接続してみせるところや、内臓取り出しの動機にこのあたりを絡めているところもまた異色。さらに従来であれば「アトポス」や「水晶のピラミッド」のような長編の構成で見せていたところへ強力な圧縮をかけてやや長めの中編と纏めた中へ、リベルタス伝承の創作寓話が醸し出す虚構とセカンドライフっぽい嘘ハナシの対比を見せているところも秀逸です。
後半、語り手となるハインリッヒが、無垢っぽい好奇心からズカズカと人の心の中へ土足で踏み込んでくるところはかなりアレで、「語るのは、見ているのと同じくらいにつらいことだ」と語るトラウマを背負った爺さんのフラッシュバックもお構いなしに、謎の理由が「やっと解った」「それだけを、どうにか言った」とアッサリ流しているところには、思わず、彼の性格のイヤっぽさが滲みだしているような気がしたのは自分だけでしょうか(爆)。
「クロアチア人の手」は、爆風でフッ飛ばされた手が何処までも追いかけてくるという怪異の幻想が強烈で、そこに不可解な密室と入れ替わり、さらには俳句にピラニアといった奇特なアイテムを鏤めて事件の不可解さを高めている風格が、「山高帽のイカロス」に近いかな、という印象を持ちました。
グテングテンに酔っぱらっていた酒飲み爺さんが密室状態で、顔と手をピラニアに喰われて死んでいるというシーンも相当に激しく、また入れ替わりを仄めかして、そのもう一人が謎の爆死を遂げているという事件の結構も、御手洗には「観察だ。観察して、材料を集めるんだ」と言われても、ボンクラであれば一体どこから手を付けていいのやら、そもそもの推理の起点となる「気付き」のところから躓いてしまうものの、盛んに煙たがりながらもテレホン相談室で石岡君にホームズ流の推理を指導してあげている今回の御手洗はかなり好印象。もしかして御手洗、ちょっと性格良くなったカモ、と思いましたよ。
手の消失については御手洗がヒントをくれるおかげで恐らくはほとんどの人がこの真相にたどり着けるかと思われるものの、これを密室の仕掛けと連結させる奇想が素晴らしい。また爆死については定番のアレながら(爆)、本作では犯人となる人物の手記を最後に配したことで、彼の故郷の歴史と個人の無常観がより高めている技法が光ります。
一番感心したのはこの事件の組み立て方でありまして、真相を隠蔽するために様々な趣向が凝らされており、例えばクロアチア人の殺人事件の舞台が何故、日本なのか。推理が開陳された時にようやく、密室トリックにも繋がるある真相を隠すため、またこれを同時に伏線へと機能させるために舞台が日本であったことが判明します。
二十一世紀本格の技法や、事件の構成方法に見られる細やかな舞台の配置、さらには推理や真相の開示によって人間の悲哀が立ち上る構成など、御大の本領が発揮された傑作二編を収録した本作、個人的に表題作は「首鳴き鬼の島」と並ぶ、今年の二十一世紀本格の大きな収穫だと思っているゆえ、二作を比較しつつその結構の違いを色々と考えてみるのも面白いかもしれません。