實は未讀でした。これもまた「世紀末大バザール 六月の雪」と同様、本格らしくないという評判を聞いていた為スルーしていたのですけど、結論からいうと、確かに本格として愉しめるかというと正直微妙なものの、個人的には堪能しました。
選評を見ると笠井氏などは「私が引っかかったのは、この作品が本格ではなく、江戸川乱歩賞では定番の業界ものサスペンスという点だった」と書いているから、こりゃア自分が一番苦手なかんじのミステリかも、なんて思っていたのですけど、確かに解剖学教室を舞台に「定番の業界ものサスペンス」的な風格が濃厚とはいえ、キ印のマッドサイエンティストの過去が物語に暗い影を落とし、最後には島田御大の「暗闇坂」リスペクトっぽいキ印博覧会もアリ、さらにはヒロインが屍体プールにドボン、と「本格好きの皆さんはアルジェント、好きですよね?」と言わんばかりのサービスショットもあったりと、ホラー趣味、怪奇趣味を添えた通俗的展開もツボでした。
とはいえ一番のウリはやはり物語の冒頭に提示される、献体の体から取り出されたチューブの中に不可解なメッセージが入っていたという強烈な謎でありまして、そのメッセージに添えられていた名前が解剖学教室の担当教授の名前であったから超吃驚、――とはいいつつ、「運や偶然、あるいは魔法や超能力に頼らず、そんなことができるのか」と地の文に書かれている通り、まさに奇蹟ともいえる偶然ながら、ボンクラの自分はここで、このチューブって最近埋め込まれたものなんじゃないの、なんて考えてしまったのですけど、この推理は中盤でアッサリと否定されてしまいます。
チューブが埋め込まれたのは十九年前の手術の時で、その執刀を行った醫者はすでにこの世にいない、というところからメッセージの件はこれで終わりかと思いきや、教室ではこのチューブの發見を引き金にまたまた不可解なメッセージが現れ、さらには献体が鼠に喰われるわと怪奇小説的な出来事が起こります。
ついにはコロシが発生して、メッセージ通りに屍体の片腕が切り取られていたから事件はいよいよリアルになってはいくものの、物語はこのコロシの謎は脇に退けたまま、もっぱら件の時を超えたメッセージの謎を中心に据えて進むところが「らしくない」といえばその通り。
都市伝説めいたエピソードなどが最後にはリアルの出来事であったことが明かされるなど伏線の添え方も巧みで、コロシが発生してからヒロインが積極的に行動を開始するところなど、個人的には中盤からの通俗的展開も面白く、特に上にも挙げたヒロインが犯人に襲われて屍体プールにドボン、はかなりツボ。
ヒロインが解剖学を目指すことになった過去のトラウマがエピソードとして語られていて、これが事件の解決によって収斂していくところなど「羊たちの沈黙」リスペクトなところ本作の通俗的な雰圍氣を高めていて好印象。
で、コロシの方もそっちのけにして、チューブの謎にこだわりまくる理由が最後に明らかにされるのですけど、この眞相、というかトリックは手紙をネタに本格ミステリではよく使われるものながら、これによって事件を影で操っていたキ印のキャラが俄然際だってくる結構は本当に見事。最後は犯人の独演会で事件の全体が語られ、その後にまたまた操りに絡めた眞相とエピソードが明らかにされるところも通俗的なサスペンス小説としてはアリでしょう、……って通俗通俗って言葉を思わず連呼してしまったのには勿論理由がありまして、笠井氏がいわれる通り、確かに本作は「推理の要素は希薄といわざるをえない」風格で、推理よりも事件の眞相の開示はもっぱら犯人や關係者の独演会にまかせてしまうところなど、本格ミステリとしてはかなり弱いような氣がします。
例えば本作で探偵役をつとめるのが火村や法月だったら、献体からチューブが出て來た時点で、何故KとTはイニシャルなのか、とかこのメッセージのネチっこい解析分析だけで二百頁はイケるんじゃないかなア、とか、第二のメッセージが登場した時点で過去と現在を結びつけて様々な推理が開陳されたのではないか、とか、個人的には献体から見つかったメッセージに絡めて、そこから様々な謎を見いだし可能性を検証してもらいたかったのですけど、本作の探偵たちは自分の關心とは乖離したところで推理を披露してみせるところがちょっと違うのでは、と感じた次第です。献体に鼠をたからせるのに誘因物質を使ったとかそんな推理はどうでも良いよ、なんて思ってしまったのは自分だけでしょうか。
本格ミステリにおいては、殺人をはじめとした事件に絡めて提示される大きな謎は勿論のこと、登場人物たちがそこから様々な謎や可能性を見いだしていくという結構がやはりキモで、本作でいえば上にも述べた通り献体から見つかったメッセージなどが重要なアイテムとして推理のネタにされるべきだったのでは、なんて考えてしまうのですけど、動機や事件の背後關係も含めた眞相は、探偵たちの推理の結果というよりは、犯人や關係者が唐突に独演会を開催してはいオシマイ、という構造ゆえ、このあたりに本格マニアはかなりの不満を感じてしまうかもしれません。
本格理解者的な視點から見ると、例えば密室殺人のような明確な不可能犯罪がないといところで本作は愉しめないかもしれないし、いずれにしろ本作では、謎―可能性の提示というところで、本格ミステリとして見た場合、評價が辛くなってしまうのではないかなあ、と思うのですが如何でしょう。
ただ、本格ミステリとかそういうところを抜きにして讀めば、格調高い文体に相反して「らしくない」ともいえる怪奇趣味を添えているところや、キ印マッドサイエンティストの因業など、新青年時代のいかがわしい探偵小説の風格を継承しているところや、トラウマを抱えたヒロインの大活躍といった現代ミステリの見せ場をシッカリと用意してあるところなど、愉しみどころはテンコモリ。
で、再び選評に目をやると、笠井氏は本作をあまり評價していなくて、似鳥鶏氏の「理由あって冬に出る」を推しているのですけど、その理由というのが、
わたしが似鳥作品を佳作に推したのは、……(略)あくまで可能性を評価してのことだ。第三の波の書き手の大多数が一九六〇年代生まれで、年長組は四十代も半ばをすぎている。将来の米澤穂信や桜庭一樹のような若い書き手を集めることができなければ、鮎川賞の将来は危ういという判断が、この作品を推した背景にはある。
と、どうやら1965年生であるオジサン麻見氏が本作を受賞したことにはややご不満の様子。しかし最近の笠井氏はどうにも世代論に流れるきらいがあって、勿論いたずらに世代論を持ち出して話を進めていくことがイクナイことは自覚しつつ、それでもところどころでこういった言動を残してしまうところがちょっとアレ。
個人的には本作、新本格の延長線上にある作品には感じられませんでした。本格理解「派系」作家の首領が大好きな驚天動地空前絶後の不可能犯罪を前面に押し出したコード型本格ではないところは勿論なのですけど、眞相の開示によって人間を描き出そうとする構成などに、トリック一辺倒で物語をゴリ押ししていく雰圍氣は希薄です。
やはり、第三の波の延長線上に、本格ミステリの視點から本作のような作品を評價していくのはちょっと無理がある、というか、この作品に限ってはふさわしくないのではないかなア、という氣がしました。勿論、だからこそ本作が鮎川賞にふさわしいか、という議論はもっとなされるべきだとは思います。
それと自分も六十年代生まれなのでアレなんですけど、一概に六十年代生まれというだけで、第三の波の次世代、或いはその風格を継承していく本格ミステリ界を担う資格はナシ、というのは如何なものか、……ってまア、笠井氏もそこまではいってないですか(爆)。
とりあえず本格ミステリにおいては、若い書き手が必要とされていて、オッサンやオバサンには出る幕なし、というのはよく分かるのですけど、しかし「若い書き手」が求められている本格ミステリ界において、その「若い書き手」や彼らが書いた作品を送り出そうとしている出版業界が想定している讀者ってどういう人たちなんでしょう?
やはりその「若い書き手」と同世代の人たちなんでしょうか。その中にはご高齢の本格の鬼や、或いは角川の横溝フェアでミステリを知った中年世代、或いは新本格から本格ミステリに入っていった自分より少し下の世代等は入っているのか、それともYA!世代のみなのか、或いはそもそも書き手は讀者など頭に思い描く必要はないのか、それとも……なんて、自分も六十年代生まれなもので、最近の笠井氏のさりげなく添えられた世代論にはやたらと敏感に反應してしまうのでありました。
でも、その「若い書き手」もいつかは歳をとっていく譯だし、デビュー當時は「若き才能、本格ミステリ界に現る!」なんて大々的に持ち上げられ書店員様とのタイアップも絶妙な効果をあげて大好評、出す本はどれも賣れまくり映畫化決定、しかし十年、二十年もすれば次の「若い書き手」が新たに登場して出版社も編集者も掌を返したように「おたく、もう中年でしょ。アンタの時代は終わったんだよゲラゲラ」なんていわれてお役御免、となってしまうのは如何なものかとも思うし、「若い書き手」に踊らされた結果が大量死理論を忠実にトレースした「殺人ピエロ」ではミステリ業界が失速するのも當然至極、――なんて妄想してしまうのはやはり自分だけでしょうかねえ。