この時期の「ジャーロ」といえば、本格ミステリ大賞に票を投じた作家評論家の方々の選評に大注目、という譯で今年も購入後、早速チェックしてみました。
昨年は件の「X騒動」にわき起こった本格ミステリ大賞でありますが、今年もその余波を引きずっているように感じられるとはいえ、個人的に興味深かったのは評論・研究部門の方でありまして、こちらの期待通りというか、かなりの方が本格理解「派系」作家の首領による件の「時評発言」を意識した言葉を述べていたのが印象的でありました。
まずは千街氏が冒頭から、「作品そのものの出来映え以前に本格というジャンルへの忠誠心を目に見えるかたちで示すことを重視するような一部作家の言動」云々と、「今更ここで個人名を挙げるまでもなく、皆さんおわかりですよね?」とでもいうかのような仄めかしがナイス。
蔓葉氏も、「論理の蜘蛛」については敢えて「時評という形式であり」なんてかんじで、「時評」という言葉をシッカリと添えてみせれば、法月氏も「時評的な作品論(精度の高い読みと作品の取り合わせの妙)を通じて、過去十年間の本格シーンの底流を説得的にかびあがらせたドキュメント」と、ここでも「時評的」という言葉でもって「論理の蜘蛛」について述べているところも興味深い。
「時評としての作品論」ではなく、敢えて時評「的」としているところには勿論何かしらの意味があるんじゃないかなア、なんて自分などは邪推してしまうのですけど、そもそも時評だから評論じゃないという考えを推し進めていくと、例えば門井氏が「論理の蜘蛛」を評價している文章の中で、
また、一期一会の魅力とでも呼びましょうか。この小説を扱うこの機会を逸したら、この主題に思いを巡らすことは二度とない、そんな緊張をすみずみに感じたのも読みがいのあることでした。ひょっとしたら、これは論旨そのものと同じくらいの魅力かもしれません。
というような「一期一会の魅力」まで排除してしまうのではないかな、とか考えてしまうのですが如何でしょう。さらに「今、ここ」を論じることなく、「今、ここ」にいる本格ミステリの讀者に對して論を展開させるという行為自体に自分のようなボンクラは非常に違和感を覚えてしまいます。そもそも「今、ここ」にいる論者が、持論の中から「今、ここ」を完全に排除することなど可能なのかとか、件の「時評発言」に絡めて自分などは色々と考えてしまうのですけど、「論理の蜘蛛の巣の中で」が本格ミステリ大賞を受賞した後も、首領がこの件についてはダンマリを決め込んでいることは何とも不思議。
で、小説部門の選評に目を向けてみると、首領曰く「非常に残念であるが、今年の候補作選出は完全に失敗していると思う」とブチ挙げているのですけど、これって、本格理解「派系」作家の宿敵、杉江氏に對するアレじゃないかな、と思ったりしつつ、ここからもう少し深讀みすると、この発言には、そもそもずっと前から自作が候補作にさえ選ばれないという不満も込められているのではないかなア、なんて思うのですが如何でしょう。
で、首領曰く、
本格ミステリ大賞は、年功序列や勲功で選ぶのではなく、作品本位、あるいは、今年の本格作品群の動勢を読者に示すものとして選ぶ必要があろう。
といいながら、しかし評論・研究部門の選評では、
結局、紀田順一郎氏の作品に一票を投じるのは、氏の歩んできた紹介者としての功績を讃えるためである。
と纏めているものだから自分のようなボンクラは頭がクラクラしてしまいます。確かに「功績を讃える」ことがそのまま「勲功」ではないというのも頭では分かってはいるとはいえ、「作品本位」と述べておきながらそのすぐあとで「功績を讃えて」一票を投じたと告白してしまう藝風は誰にでも真似出來るものではありません。このあたりはやはり首領、でしょうか。
それと本格理解「派系」作家が総じて「シャドウ」を推しているところでまたまた頭がグルグルしてしまう譯ですけど、ここでフと、首領は「本格ミステリー・ワールド2007」の中で「本格ミステリーの定義」について述べていたことを思いだしました。曰く、本格ミステリーとは「本格推理+α」な譯ですから、要するに「シャドウ」ではこのプラアルファを評價した、ということでしょう。しかしとだとすると、そもそもその評價軸の根幹は「本格推理」の部分にあるべきで、そこのところをなおざりにしておきながらプラスアルファの部分でその作品を評價してしまうのは如何なものか、――とかここでも色々なことを考えてしまいます。
そのほか、道尾氏の「受賞の言葉」で、トリックの絡みにおいて「物語がある時点において、不意打ちで感情を投げつける」という狙いを述べているところや、有栖川氏の「技巧の冴えによってピュアな物語に仕上がっていることだ。この逆説を、本格ミステリは大切にしていくべきだ」という「シャドウ」評、歌野氏の「作品の屋台骨であるべき推理部分が脆弱」であることが現代本格の危機であるとの指摘にはなるほどな、と感じた次第です。
あと、本格ミステリ大賞とは全然關係ないんですけど、今号でも笠井氏は探偵小説論IIIで、「容疑者X」について述べておりまして、
劣勢を認めようとしない二階堂黎人が、『容疑者Xの献身』をめぐる論争の過程で、味方だと信じていた鮎川派から孤立した事実もまた、第三の波の変質を物語っている。
とまたもや首領を「困ったちゃん」扱いしているところが何ともですよ。ちなみにここにいわれている「鮎川派」というのは文脈からすると北村氏と有栖川氏の二人ということになるのですけど、笠井氏の指摘通りに本格理解「派系」作家としての立ち位置が既に「劣勢」であるというのであれば、寧ろここで本格ミステリ作家クラブに対抗して、本格推理作家倶楽部とかを結成すれば、本格ミステリ大賞の候補作の選出過程における不満もイッキに解消するだろうし、――なんて思ったりするのですが如何でしょう。
そのほか、道尾氏と綾辻氏とのイカしたツーショットもあったりと、本號もまた本格ファンにはマストの一冊といえるのではないでしょうか。
先日の本格ミステリ大賞座談会でも、法月氏が巽氏の評論を「過去の本格作品に対する理解と尊敬を持ちながらも、一種のミーハー精神を以って新たな作品群にも精力的に取り組んでいる」(大意)と褒めていました。
まさしく巽氏が「今、ここ」の中で、それに逆らわずしかし確固たる自らの評価軸により評論活動を行っている証左のような気がします。
この「確固たる自らの評価軸」を持っているというのは重要ですよね。そして巽氏にしろ千街氏にしろ、決して過去の視點のみに留まることなく、變容を續ける現代の本格ミステリというものをとらえようと奮闘している。
例えば千街氏のように、そこから「社会的背景を捨象」し、「ミステリを構成する要素」を初めとした「純粋な運動だけを観察する」ような手法を採用したとしても、それが運動という變容を前提とした対象である限り、その評価軸自体にもその本質を見拔くことの出來る柔軟さも含めた多樣性が求められると思うのですけど、本格理解「派系」作家にとっては、この評価軸の多樣性や柔軟さが理解出來ない、というか、その定義をハッキリさせろということになってしまうのが謎ですよ。
また、時評という点に關していえば、本格理解「派系」作家の首領が、探偵小説研究会の方々と比較する時に決まって名前を挙げてみせる笠井氏だって、本格ミステリを「定点観測」している譯で、そこには「今、ここ」を論じる視點が當然入っていると考えるべきだし、そもそも「今、ここ」から離れて評論活動を行わないものは全て時評、みたいな考えを推し進めるのであれば、そもそも評論の意義とは何なのか、なんて考えてしまいます。理論なり持論があったとしても、それを「今、ここ」に適用出來ないのだとしたら、それって「今、ここ」にいる自分にとってはどういう意味があるのかなア、とか頭を抱えてしまいます。
こりゃア下手をすれば、「今、ここ」において作品を論じるという行為自体を全否定しかねない暴論じゃないの、とか自分などは思ってしまうのですけど、それでも「容疑者X」騒動に比較すると、「論理の蜘蛛の巣時評問題」(勝手に命名しました(爆))では現在のところ沈黙を保っている首領の今後が俄然、氣になってしまうのでありました。