器用貧乏、歌無し世界。
本格ミステリにプログレと、その趣向からすれば自分的にはモロ好みながら、うーん、……今ひとつノれなかったのは、後半に進むにつれて本格というよりはミステリから逸脱していくそのやりすぎぶりが自分の好みには合わなかったのかなア、なんて頭を抱えてしまいましたよ。
収録作はいずれもジャーマンロックをネタに据えた短篇で、ファウストネタで奇天烈バンドのライブの最中に和製マルコムが屍体となる「廃虚と青空」、カンネタで山海塾のパクリ舞踏家が死に際のアートを開陳する「闇の舞踏会」、アモン・デュールIIネタで怪しげなイリュージョニストの壮絶ショーが混沌を引き起こす「神の鞭」、ノイ!をネタに感覺交換器の実驗中に奇妙なコロシが發生する「電子美学」、クラフトワークネタで、いよいよミステリから逸脱した領域へとダイブした「人間解体」の全五編。
正直、最後の二編はミステリとしては説明不可能というシロモノで、やはり個人的な興味は前半の三編に集中してしまうのですけど、まず、ネタ元のジャーマンプログレのアイテムをこれでもかという具合に鏤めた風格がステキで、マニアはこのあたりでニヤニヤ笑いが止まりません。
「闇の舞踏会」でチンケな現代アートを公開している男の作品タイトルが「Father cannot yell」(「モンスター・ムーヴィー」)だったり、「Animal waves」(「ソウ・ディライト」)だったり、「Pinch」(「エーゲ・バミヤージ」)だったりと、このあたりの遊び心がマニア的にはかなりツボ。
とここまで書いてきて氣がついたのですけど、自分はプログレ好きとはいっても、ジャーマンプログレがちょっと苦手、というか、カン以外はそれほど好みではないというか、どちらかというと変拍子の中にイッパイの歌心があるイタリアものとか、フランスものとか、ブラジルとか、和モノが好きな輩でありますから、恐らくはこのあたりが本作にそれほどのめり込めなかった理由カモ、なんて思いました。
まあ、このあたりは円堂氏の解説を引用しつつ後半に述べるとして、とりあえず作品の方に話を戻しますと、最初を飾る「廃虚と青空」は既存の業界にノンを突きつけるが為に、コミューンに籠もって奇天烈な音樂を作り上げたバンドのライブで、プロデューサーが殺されるというお話。
バンドのメンバーは現場から消失、以後行方不明という謎ながら、冷静に考えると、ライブの最中にはドカドカ激しい音がしているわ、混乱に乘じて人の出入りも可能という状況でありますから、登場人物たちは密室だ密室だと大騒ぎをしているものの、實をいえば密室としてもかなり甘い。
しかし仕掛けの方は、銃殺という犯行方法に必然性を持たせながらいくつかの小ネタを繋いで綱渡り的な犯行を爲し遂げているところが秀逸です。外面は奇天烈バンドのディテールなど、いかにも突拍子もない印象を受けてしまうのですけど、本格のトリックはそれに反して非常に實直というところが面白い。
この表向きの印象と本格のトリックの生眞面目さの對比という點では、續く「闇の舞踏会」も同様で、こちらはさりげなく暗號ネタも交えつつ、アートフェスの會場で奇天烈な死に方をした藝術家の死の眞相に迫るという物語。
後半、いくつかの假説を提示して眞相を二転三転させていく展開も小氣味よく、特にいかにも藝術家らしい動機や犯行の趣向から敷延させてきた推理を、俗人めいた生臭い動機へと転落させていく流れには笑えました。
「神の鞭」もイリュージョニストとしても現代アートとしてもやや中途半端な輩のショーの最中にコロシが發生するというお話で、ここでは実際の殺人よりも、月の消失のトリックに感心しました。殺人のネタも、いくつかの手法を繋げていくという實直さで、シッカリと構築された事件ながら、逆にこの生眞面目さ故ややパンチに欠けるように感じられるところは、そのままジャーマンプログレの趣向をトレースしたものなのかどうか、このあたりが氣になります。
最後の二編はもう完全に訳が分からないワールドで、モンドというタイトル通りに胡散臭さが爆發した風格で、感覺交換機という怪しげなアイテムに絡めてとある生き物のアレがアレになるというお話。ミステリの技法よりはそのナンセンスな風格を愉しむべき作品でしょう。
で、興味深いと思ったのが円堂氏の解説にある以下の一節でありまして、
「歌はあっても歌心はない……」という文章を見た際、本格ミステリのファンはなんとなく連想するフレーズがあるのではないか。本格ミステリを批判する際の常套句としてよく知られた「人間が描けていない」のことだ。これは「小説であっても小説心はない」と批判しているに等しい。本格ミステリでは、奇妙な謎を解くその論理を楽しむことを第一とし、時には、謎以上に論理が奇妙だったりする。このジャンルでは、人間を描く以上に「謎―解明」の論理が優先される。ジャーマン・ロックや現代アートで、情緒的感動よりも論理への興味が上回るのと同じである。
「人間を描く以上に「謎―解明」の論理が優先される」という本格ミステリ側からの主張は、「人間が描けていない」という、ある種の本格ミステリを分かっていないオジサンとかの意見を巧みに「回避」しているようにも思えます。しかしこれはあくまで「回避」に過ぎないのであって、眞っ向から、毅然とした態度で相手に對して意見を述べていないような氣がしてしまうのは自分だけでしょうか。これに對してこのような「回避」を行うだけでは、未だ自分たちは「宿題」に答えることが出来ていないのではないか、と思う譯です。
個人的には、本格ミステリとは、「謎―解明」というメカニズムの中で、或いはそのメカニズムによって「人間を描く」「文學」であると感じていて、「謎―解明」という本格ミステリの骨格と「人間を描く」という文學的志向とを切り離した結果、「人間を描く以上に「謎―解明」の論理が優先される」と主張してしまうのは、ちょっと寂しいなア、と個人的には思います。
以下は、嵐の山荘に密室を拵えて空前絶後のトリックを添えればそれで本格ミステリの一丁上がり、という本格理解者的が超絶的にオススメの作品よりも、泡坂連城ミステリが大好きという、本格理解者から見たら著しく偏った嗜好を持ったボンクラのキワモノマニアの戲言と軽く聞き流して欲しいのですけど、以前述べたことを繰り返すと、例えば泡坂氏の傑作短篇「ゆきなだれ」と「硯」は、巧みなミスディレクションの技法を凝らして讀者をミスリードさせつつ、最後にその「眞相」が明かされた當にその瞬間に、とある人物の人生が一氣に物語の表に浮かび上がるという構造を持っています。
「硯」ではあるささやかな謎が冒頭に描き、最後の眞相の解明によってとある人物の隱されていた人生を浮かび上がらせるという手法は、當に「謎―解明」という、本格ミステリが中心に持っているメカニズムによって「人間を描いて」いるといえる譯で、泡坂氏のこの二編においては、「謎―解明」という結構と「人間を描く」ということは切り離されたものではなく、完全に一体となっている、――と見ることは出来ないでしょうか。
自分が本格ミステリの傑作と感じる作品には、「謎―解明」に限らず、本格ミステリの技法技巧によって「人間を描く」という方法が採られているような氣がしていて、例えば、「謎―解明」という構造を破棄しながらも、本格ミステリの技法を突き詰めたことによって大傑作となった「イニシエーション・ラブ」も、最後の仕掛けが明らかにされた瞬間に、とある登場人物の本当の姿が浮かび上がってくるという趣向において、上に挙げた泡坂氏の二短篇と同じように「人間を描」いているのではないかなア、なんて自分は考えてしまうのですが如何でしょう。
で、このあたりから話を無理矢理プログレにもっていって、プログレでは御約束の変拍子をはじめとした技巧と歌心は決して切り離して評價できるものではなく、例えば……ってかんじで話を續けようと思ったのですけど、些か長くなりすぎたので、今日はこれくらいにしておきます。