不倫の法悦、間男の奈落。
島田御大のいわれている「清張呪縛」の眞相を求めて、新本格以前の作品を本棚から取り出してはツラツラと再讀したりしているのですけど、今回はそんな中から敬愛する土屋御大の短編集「芥川龍之介の推理」を取り上げてみたいと思います。
普通のミステリファンだったら、土屋隆夫といえば「割り算の文学」をはじめとした大まじめなミステリ論を思い浮かべるのでしょうけど、キワモノマニア的には土屋ミステリの、それも短編となればやはりそのムッツリエロスに注目してグフグフと忍び笑いを漏らしつつ、その素晴らしい技巧を堪能したいところです。
で、本作に収録された短編はいずれもそんなマニアの期待を裏切るものでは決してなく、作品のほとんどに「夫の出張中に男が妻をアレして」というモチーフが変奏されているところなども含めて、御大らしいムッツリなディテールが冴え渡った作品ばかり。
某市で續發する少年少女の自殺事件の眞相を探る表題作「芥川龍之介の推理」、冤罪親父の復讐にボンクラ検事が奈落を見る「縄の証言」、女形爺のチンケな盗みが思わぬ秘密を暴露する「三幕の悲劇」、強姦された人妻の自殺の眞相にワルたちの悪行が明かされる「夜の判決」、人妻の悲劇が犯罪アクロバットへと轉じる「沈黙協定」、コソ泥が豪腕夫人に撃退された正当防衛の眞相とは「正当防衛」、鬱夫人の自殺から浮かび上がる女たちの業を描いた「加えて、消した」の全七編。
この中でも「三幕の悲劇」、「夜の判決」、「沈黙協定」、「加えて、消した」は「夫のいない間に妻がアレして」というモチーフにミステリ的な仕掛けを凝らした作品群で、妻の不貞という主題にこだわりまくる御大の心意気がビンビンに感じられるところがたまりません。
この中で一番ミステリ的な技巧が光るのは「加えて、消した」で、語り手には妻が自殺した男を据えながら、女の業を描ききったところが秀逸な一編です。出張から歸ってきたら旦那が妻の自殺を發見、とあれば眞相は自殺に見せかけたコロシで犯人は旦那、みたいな展開がミステリとしては定番ながら、本作では旦那を語り手に事件の背後にある秘密が少しづつ明かされていくという展開がいい。
探偵役となる妻の妹が登場して、現場の状況などからひとしきり推理を披露してみせる後半の仕込みから、最後に「犯人」の告白によってさらにその奥にある「犯行」が明らかにされるところも素晴らしい。「探偵」は全てを知っていたのか、それとも……というところをにおわせつつ、ここにもう一つの女の業をほのめかしてみせる幕引きも素晴らしい。
「三幕の悲劇」は、奥様の家に忍び込んで靴を盗んだというコソ泥が警察に自首してくるところから始まるのですけど、そもそもこのコソ泥が元旅回り藝人の女形という設定からして意味不明。タッタの靴一足じゃ盗みにしても話にならん、なんてかんじで警察も捜査にはマッタク乘り氣ではないものの、饒舌な爺にせかされて被害者宅である奥様の家を訪れると、……。
いかにも怪しいコソ泥野郞のカミングアウトには當然裏があって、中盤にはその眞意が明かされるのですけど、最後には本物のワルの御登場によって奈落へと突き落とされるこの爺の小物ぶりが個人的にはツボでした。警察で取り調べを受けている時には、現場の概要説明もそっちのけで自らの女遍歴を披露みせとるいうところも相當にアレで、そのあたりを軽く引用するとこんなかんじ。
「……そんなわけで、多いときには、一晩に二人、三人とお声がかかってまいります。本気でお相手しては、こちらの体がもちません。それもあなた、世にいう三十後家の深情けで、役者買いをなさろうというお方ですから、アノ手、コノ手はしり尽くしております。ネットリからみついて、歌さん、今夜は放さないよ、と吐き出す息が耳から胸へすべって行く。生きもののような、やわらかい唇で、わたしをくわえて右へ左へ、上へ下へと動かすのだが、松葉くずしは千鳥の秘曲でございます。もうこうなれば、とけて流れる自露を、厭うお方はございません。音をたててのみ込んで、ああおいしい、今夜の歌さんは格別だねえ、とニッコリ笑いかけてくる。奥さん、そんなに気持ちよく攻められては、もう死にそうでございます。あら、お口のうまいこと。いっそ殺してあげようか。本望でございます。そんなら歌さん、こんどはこうして、と目にしみるような白い太腿を、わたくしの顔に押しあてまして……」
お前は講談師かいッ、と思わずツッコミを入れてしまいたくなるほど流暢な艶話を聞かされては、取り調べ中とはいえ若い刑事も思わず「いくども生唾をのみこんだので、口の中がカラカラに乾いて」しまうのも致し方ない。で、警察を前にしてこれほどに饒舌だった爺が、最後にワル男の登場によって命乞いをする時の小物ぶりとの対比もまた素晴らしく、「幕切れのセリフ聞いてやるぞ」とドスをきかせた声で凄みをみせるワル男に對して爺の返答というのが、
「待ってくださいまし、お助けください。金はお返し致します。そのかわり、市会議員さんのお力で、わたしを老人ホームに……」
勿論、小物の爺の奈落のあとには本物のワルたちが地獄へと突き落とされる譯で、そのいかにも御大らしい幕引きも含めて、ムッツリなエロスとブラックな味を堪能したい作品でしょう。
ただ、個人的にもっともエロかったのは表題作の「芥川龍之介の推理」でありまして、健全なる少年少女の自殺の動機を、一刑事が文豪先生のアフォリズムをネタにして推理していくという趣向です。物語の中では大きく二つの自殺がな謎解きによって明らかにされるのですけど、個人的には真面目に見えた少女の「夜の悪い習慣」の眞相が明かされるところがキワモノマニアとしてはかなりツボ。「深夜の法廷」にも明らかな通り、女のエロスには年齢も關係ナッシングという御大のムッツリぶりが素晴らしい逸品でしょう。
と、何だかゲス男の色模様を長々と引用してしまったのでスッカリ頁數が超過してしまっているのですけど、本作を今回取り上げた理由というのは別にありまして、それというのが巻末に掲載されている山村御大の解説です。
奥付を見ると、本作は昭和53年7月10日初版とあり、自分が持っているのは57年9月30日の六刷。ちなみに島田御大の「占星術のマジック」のリリースが昭和56年であることを頭の片隅に覚えておいていただいて、以下、山村御大の解説からいくつか引用してみますと、冒頭、山村氏が土屋氏とラジオで對談する機會があってその時に土屋御大が「次のような述懐を洩らした」とあります。
「最近の新人作家に、意識して古風な探偵小説を書く人がいるでしょう。ああいう風潮には疑問を感じますねえ。私なんかはそうした一時代前の殻から抜け出すために、どれほど涙ぐましい努力をしたかもしれないというのに……」
で、こんな土屋氏の溜息に、山村氏は「過去の作家はともかく、新人作家が逆コースを辿ることに、土屋氏はかなり批判的だった」と續けてみせます。
勿論文庫の解説が増刷をきっかけに新しいものと差し替えられる可能性もあるかもしれないので、これだけをもってして「占星術のマジック」以前に「意識して古風な探偵小説」で新人作家がデビュー出來るという状況が既にあった、というハッキリとした証拠にはなりえないとはいえ、自分としては非常に興味深い発言だと思った次第です。
また山村氏はこの解説の中で、土屋ミステリは社会派とも違うということも述べておりまして、
本書に収録した七編の短編は、……いずれも現実感に富んだ身近な日常生活に犯罪がからませてあって、初期の作品に見られた探偵小説臭は片鱗も残っていない。とはいえ、あくまでの個々の人間関係を浮き彫りにして、いわゆる政治や企業などの告発を主眼としていない点が、社会派の作風とは歴然と異なる特色だと言い得るだろう。リアルを心がけても、構成的には事件の謎解きや物語の起伏の方に重点が置かれていて、エンターテイメントに徹しているのである。
山村御大的には「政治や企業などの告発を主眼」としたものが社会派で、土屋ミステリには「事件の謎解きや物語の起伏の方に重点が置かれてい」る為にそれとは違う、という考えであることが分かります。とはいえ土屋氏も清張の作品が讀者に支持されている現實を無視は出来ないと思っていて、山村氏は「私論・推理小説とは何か」から以下のような文章を引用してみせます。
「われわれは、この事実に注目しなければならない。松本氏の成功作が『社会性』よりも『謎解き』にウェイトを置いたものである、という事実は、もう一度考え直してみる必要があるのではないか。推理小説に要求されているものは、いったい何であるのか」
と言ってから本格礼賛論を述べ、
「こう書いてくると、わたしが本格一辺倒で、それ以外のものは推理小説として認めないという誤解を受けそうだ。わたしが、本格を強調するのは、松本清張氏の『社会性』とか『日常性』ということばを誤解して、松本作品の骨太い骨格をつくっている謎や論理を見落としている亜流作品の続出をおそれるからである。殺人事件が書いてあれば、推理小説だというのでは困る。普通の小説との間に、はっきりとした境界線を引いて置くためには、いささか偏狭な意見を述べる必要もあろうではないか」
と書いているのが、氏の推理小説観を明確に示したものとして注目に値する。
これらの土屋氏、山村氏の発言から類推出來るのは、やはり當時は清張作品がブームであったことと、その亜流作品がやはり市場に出回っていたらしいこと、なのですけど、個人的には、清張の亜流というか、清張の二匹目の泥鰌を狙ったインチキ「社会派」の作品がリリースされていた一方で、「占星術のマジック」以前にも「意識して古風な探偵小説を書く」ような新人もデビュー出來るような状況であった、ということでしょうか。
また、當時の「社会派」というのが「社会性」と「日常性」を有したリアリズム志向であったというのは何となく想像出来たものの、ここにいう「社会性」と「日常性」というものの実像がどういうものなのか、今ひとつハッキリとしなかった自分としては、土屋ミステリの風格と比較しつつ、それを「政治や企業などの告発を主眼」としたもの、と山村氏が述べているところが興味深い。
コロシが起きて、その事件の背景には政治や企業の告白があって、結局事件の謎解きもなされずにリアリズム刑事が後半でイッキに事件の眞相を語ってジ・エンド、みたいな作品は確かに本格好きとしてはアレで、「松本作品の骨太い骨格をつくっている謎や論理」という土屋御大の指摘には説得力があるように思います。
またこの解説の後半では、「不可解な謎の設定と論理性や推理性、それに意外性だけで、新しい本格物を創造する道を選んだのだ。そうした手法によって、エドガー・アラン・ポー以来の伝統である謎解きの特質を、現実的な日常の中に生かすことに成功したのである」と、ポーの名前を挙げて土屋ミステリの作風を纏めているところにも注目、でしょうか。
更に旧来の探偵小説と決別した土屋ミステリを山村御大が「新本格の作品」と書いているところも面白い。もっともここでいう「新本格」が「十角館」以後の「第三の波」とは異なる、というのはいうまでもありませんか。
清張全盛の時代、「探偵小説に一番郷愁を感じるはず」の土屋氏が「意識して古風な探偵小説を書く」新人に批判的だったことに山村氏は驚いているのですけど、旧来の探偵小説から決別し、またリアリズムを基調としつつも清張ミステリに吞み込まれることもなく本格ミステリを書き續けている土屋御大は、やはり非常にユニークな存在なのかもしれません。
もっともキワモノマニア的な観察眼で見ると、かつての探偵小説が持っていた「エロ」、「グロ」、「ナンセンス」のうち、「グロ」だけを捨てて、「ナンセンス」と「エロ」をミステリの結構の中に極大化してみせたのが土屋ミステリの隠れた風格だったりして、なんて考えてしまうのですけど、誰も賛同してくれませんか(爆)。