偶人たち、偶爾として。
實は本作、リリースされた時にすぐさまゲットして取りかかったことがあるのですけども挫折してしまいまして。で、今回の再挑戦となった譯ですけど、まず前回何故途中で讀むのをやめてしまったかといいますと、これが所謂超ド眞ん中、直球にして正統派の「館もの」でありまして、……というとだいだいどんなものだか分かるかと思いますけど、要するに奇妙な館に譯ありな連中が集まり、そこでジャカスカ人が殺されていくという本格理解者も大滿足の風格です。
何しろ探偵である若平が連續殺人事件の舞台となる雨夜莊に向かうすがら、いきなり落石に遭遇、嵐の山荘状態が現出するやその後は次々と不可解な密室状態から首切り死体やおぞましい絞殺死体がワンサカ出てくるという展開でありますから、ヴァン・ダインやカーを神と崇める本格理解者が感動に噎び泣いてしまうことは間違いなし。
しかし事件が發生する度に容疑者一同が大部屋に參集し、そこで探偵が長々とアリバイの聞き込みを續けたりといった黄金期の鷹揚さまでをも完全トレースしてしまった功罪として、まず物語の展開が平板になってしまっているのが氣になります。
勿論、一本調子になりがちな物語にメリハリをつける為、他視點による描寫も添えてコロシの場面を描いてはいるものの、それでもサスペンスも交えてテンポよく進む最近のミステリを讀みなれた本讀みからすると、コロシの後にアリバイの聴取、そしてまた何だかんだあってまたコロシが發生というルーチンワークはいかにも辛い。
また、過去の殺人事件の眞相を突き止めて欲しいと召喚された探偵がいるにもかかわらず、連續するコロシを食い止めることが出來ないというのも最近のミステリとしてはアンマリで、このあたりに違和感を覺えてしまうのは恐らく自分だけではないと思うのですけど如何でしょう。
探偵の造詣についていえば、この平板な事件の進展に、人格者にしてノーマルな林若平では場が持たない、というかもっとアクの強いキャラでないとやはり辛いかなア、という氣もする一方、コード型本格とはいえ讀み進めている間はあまり退屈を感じない綾辻氏の館シリーズや、本格理解「派系」作家の首領の蘭子シリーズなどはやはり凄い、と感じてしまった次第です。少なくとも綾辻氏と首領の作品は自分のようなまったくダレずに讀めてしまいますから。
奇矯な構造の館という點では、本作の舞台となった雨降莊も漢字の「雨」の形をしているいう奇天烈ぶり乍ら、登場人物たちはいずれも死にフラグが立っていそうな偶人めいたキャラばかりとあれば、流石に人間ドラマで話を繋げていくのは難しく、前半部で館の主が語る過去の殺人に絡めてこの館を設計した人物やその妻、前當主との三角關係を仄めかしたり、登場人物たちの戀愛模樣なども描かれてはいるものの、物語を大きく牽引していくほどの強さはありません。
……という譯で、自分にとってはかなりの苦行だった譯ですけど、しかしこれを後ろ向きの本格として評價するならば話はかなり違ってくる譯で、密室の中で瞬時に首切りのコロシを爲し遂げた犯人は何処から入り何処から出て行ったのか、という第一の殺人の謎は相當に魅力的だし、密室部屋の扉を斧でブチ破るシーンまで添えてのサービスぶりは、現代の本格を讀みなれたミステリマニアからするとパロディか、はたまたコントにしか見えない乍ら、このあたりも黄金期の本格を偏愛してやまない本格理解者にとっては當にタマらない、といったところでありましょう。
更に事件が起こる度に皆で大部屋に參集して各のアリバイの聞き取り調査を行ったりする場面も同様に、黄金期の本格へのリスペクトだとすれば本格理解者はここでもニヤニヤ笑いが止まらないに違いありません。
本作では島田御大の探偵である御手洗シリーズの某長編や、綾辻氏の舘シリーズを髣髴とさせる大トリックがあるのですけど、個人的には、こういう大掛かりなトリックを用いた物語は、クイーン派たる林斯諺氏の作風とは相容れないような氣がするんですよねえ。
傑作短篇である「羽球場的亡靈」は現場の物證から精緻な論理を構築する風格が素晴らしかった譯ですけど、本作で使われている大トリックはそのあまりの大仕掛けぶりに、犯行現場に残された手掛かりを起點にして推理を働かせてもまず眞相に辿り着くことは出來ません。
從って、本作でもまずこの大トリックの存在が探偵の口から明かされ、その後にハウダニットの側面から一つ一つの状況が明かされていく譯ですけども、ここには論理の飛躍というよりもまず「氣づき」から「推理」への移行がスムーズに行われていないぎこちなさを感じてしまいます。
これは勿論、精緻な論理を最大の強みとする林氏の作品であるゆえの不滿であって、これが普通の本格ミステリであればこのあたりはまったく問題とは感じないのですけども、「羽球場的亡靈」からこれまた傑作長編「尼羅河魅影之謎」などで魅せてくれたロジックの巧さに比較すると、どうしても大トリックを基にした事件の構築に違和感を覺えてしまうのでありました。
探偵が最後に指摘する『眞犯人』に翻弄され、あたかも「偶」人の如く振る舞うしかない登場人物たちは當に日本の新本格以降の風格を髣髴とさせるものの、ここに『眞犯人』の『操り』が探偵の推理によって明らかにされるや、連關のない過去からの事象がひとつの糸に結びつき、それが今までの舞台劇めいた雰圍氣を一氣に反轉させる構成は秀逸で、個人的には件の大トリックよりもこちらの方にゾクゾクしてしまいました。因みにここで敢えて『眞犯人』と『操り』と二重括弧にしてみたのには勿論理由がありまして、普通の意味とは大きく異なるところが本作の個性でもあります。
この眞相はある意味、「尼羅河魅影之謎」で突き詰めていったミステリ小説のゲーム性を、人間ドラマの中に開示させたものと見ることも出來るかと思うのですが如何でしょう。自分の好みとは大きく異なる物語ながら、本作は後ろ向きの本格の評價基準でその價値をはかられるべきだと思うし、またミステリ小説の中で展開される人間ドラマ、――それが内包する哲學的意味についても思いを巡らせつつ、この眞相が探偵若平によってどのように語られたのか、このあたりについて今までのミステリ作品と比較しつつ、本作の斬新さが評價されるべきだと考えます。