御大訪台、ということで、久しぶりに本作を再讀してみたのですけど、21世紀本格宣言というタイトルに相違して、内容は御大流の日本人論を激しい口調でアジテートするというものが多く、ボンクラの自分などはタジタジとなってしまいます。
それでもやはり氣になったのは、「清張呪縛」なる言葉で形容されている新本格以前の空氣について述べたところでありまして、ノッケから「新青年」當事の探偵小説と比較しつつ現在のミステリは「いわゆる清張呪縛の発動で地味一方に傾き、登場人物は華を失い、警察関係者はしかつめらしいばかりで人間味に欠け」ていると指摘し、小説のジャンルが分散、分業化、尖鋭化した現状について述べたくだりでは、
今、探偵小説を読んで、性的な刺激を受けることなどまずない。そもそも何が書かれていようと活字から性的な刺激を受けることはなくなった。
と書かれているのですけど、どうなんでしょう。自分などは「涙、流れるままに」で通子がエロ爺にアレされるところとか、「ハリウッド・サーティフィケイト」でレオナが百合道に邁進したり、元プロのサド野郎にアレされそうになるシーンとか、軟禁されてモジモジ君の前でアレしたりする場面とかでは、グフグフと忍び笑いを堪えるのに必死だったのですけど、やはり、こういう讀者は少ないのでしょうか。
このエロ絡みでは、「新世紀の新本格」という文章の中で、かつて御大が受けたという批判の内容が並べられているのですけど、「シリーズ・キャラクターに依存した作品ばかりで堕落している」とか「舞台が外国となり、登場人物のすべてが外国名となると読みづらい」なんていうド素人みたいな批判の中で個人的に氣になったのが以下の二點。
・本格の作中の登場人物が長々とキスをするなど言語道断である。
・作中にポルノグラフィ的なミスディレクションを用いるのは唾棄すべき破廉恥さである。
恐らくは御大の「ハリウッド・サーティフィケイト」が頭にあっての批判なのでしょうけど、キスがいかんというのも批判にしてはアンマリだし、「ポルノグラフィ的なミスディレクションが」がマズいというのであれば、泡坂氏の傑作である幻想ミステリ長編のアレとかもいけないのか、とか、乾氏の「イニシエーション・ラブ」とか「Jの神話」もダメなのかとか、……ってまア、乾氏の作品は別の意味でアレなのは理解出來るとしても(爆)、エロいのは何でもダメというのはいくら何でもないんじゃないかなア、とボンクラのキワモノマニアは頭を抱えてしまうのでありました。
しかし御大のいわれる「清張呪縛」にしても、上に挙げた批判にしても、その批判を行っていた當人や清張絶對主義を貫いていた黒幕の姿が、業界人ではないド素人の自分にはどうにも判然としないんですよねえ。
第三の波の終焉とか新本格の危機が声高に叫ばれる度に、清張の呪縛という言葉は耳にするような氣がするのですけど、確かに本作の後半に収録されている御大の文章の中に見られる鮎川御大の言葉とかを讀むと、當事の本格ミステリ作家は本當に大變だったんだなア、というところは深く理解出來るものの、個人的には、本格派の宿敵であった社會派を支えていた側ともいえる當事の作家や編集者の方々はミステリ界をどのようにとらえていたのか興味のあるところでありまして。果たして送り手である彼らは社會派や本格を含めて日本のミステリをどういう方向に牽引していこうとしていたのでしょうか。
例えば「最後の名探偵小説」には、
昭和三十三年、松本清張の『点と線』と『眼の壁』に作品が現れ、ベストセラーになるに及んで、日本の探偵小説文壇は突如大きく方向転換する。その猛然たる舵取りの勢いは、自分の赤恥に気づいて縮みあがる樣子に似ていた。……以来、「清張流」は探偵文壇を強烈に縛した。
という記述があるのですけど、出版社にしてみれば、賣れるならわッとばかりにそちらへ流れるのは昨今の純愛ブームとかを見れば一目瞭然。出版社や流通業界も含めて當事とまったく變わっていないところに溜息が出てしまうのですけど、果たして昭和三十三年の状況と現在を同列に扱って、本格ミステリを取り卷く状況を語れるのかなア、……なんてことを最近ツラツラと考えておりまして。
というのも、當事は発表媒體といえば出版社か、少部數の同人誌としてのリリースに頼るしかなかった譯ですけど、ネットの普及によってその點は大きく様変わりしているような氣もするし、本とネットという発表媒體の相違のみで今後のミステリ史の流れを主流と傍流に分けていくような見方は正しいのか、とかこれまた色々と考えてしまいます。
プロ作家の方々とかを見ても、例えば京極氏とかはInDesignを驅使して組版までも自分でこなし、作品を製本の一歩手前のところまで仕上げてしまうことが出來るのだし、森博嗣氏や小森氏、殊能氏とかだとInDesignなど使わなくともTeXとかも使えそうだし、作品の流通というところを鑑みれば、本という媒體にさえ依據しなければまだまだ色々な方法を考えることが出來るのではないかなア、なんてことを妄想してみたりするんですけど、実際のところはどうなんでしょう。
個人的には、「企画・執筆・流通をトータルにコントロール」することを意図して「CRITICA」を創刊した探偵小説研究会とかがこのあたりで何か新しい試みをやってくれるのでは、と期待しているのですけどダメですかねえ。
閑話休題。その他、「本格ミステリー館」の後書きにおいて、件の本格ミステリー論については「本格ミステリーの原理を説明したものにすぎ」ないと述べているところは興味深く讀むことが出來ました。
成る程、あれは本格理解「派系」作家の首領が喚き立てているような「定義」とは違って、「原理」であるということで、これまた「本格ミステリーは、いかなる思想を持つか」という文章の中では、これを「世に現れた小説群を整理して起こす発想で」はない、とハッキリ書かれています。
これも首領の考えとは大きく異なるところであって、このあたりが、新しい作家と作品の登場を期待する御大と、「縄張り意識と定義を混同」して新人作家の圍い込みに熱心な首領の行動の違いとなって現れているのカモ、なんて感じた次第です。
日本論をさかんにアジテートする姿にはタジタジとなってしまうものの、本格と日本のミステリに對する、御大の深い愛を見ることも出來、挑発と挑戦一邊倒ではない、ある種の鷹揚さまで感じさせる最近の御大の軌跡を辿るという點でも非常に讀みごたえのある一册。最近南雲堂からリリースされた「島田荘司のミステリー教室」とともに今、再讀する意味も大いにあるのではないでしょうか。