藤岡センセの気持が分かった瞬間。
ここ最近、新作「白菊」もマニアから大好評の藤岡センセのサイト日記「日々是好日乎」からもう目が離せません。もの凄い勢いで増殖を續けるVOWネタ寫眞も毎回愉しみにしているんですけど、ファンとしてやはり氣になるのは時々センセがミステリに關して思うことをさらりと述べているところでありまして、特にここ最近はバカミスについて言及していることに注目でしょう。
センセは自作がバカミスと呼ばれることが嬉しくない、という件については前にこのブログでも取り上げた譯ですけど、そのあとさらにセンセは4月22日の日記の中で、「わたしは「バカミス」が嫌いなわけではありません。でも、自分が書いた小説を「バカミス」であるとは思っていないし、そう呼ばれ(分類され)たくもありません」と宣言。その一方で、「一番腹立たしいのは「メタミス」とかいう奴で」といい、また24日の日記では再び「わたしが忌み嫌うのは、読者を無視したようなメタミスだ」だと出來の惡いメタミステリと自作を一緒にされたくない、と述べています。
センセがバカミスとメタミスとの關係をどのように考えているのか、最近の日記での發言を讀むだけでは今ひとつ判然としないのですけど、センセが嫌うのは例を挙げてみれば要するにこういう作品をいうのではないかな、と思うのですが如何でしょう。
自分の中では最新作の「白菊」も「ギブソン」もバカミスではなく、また「ゲッベルスの贈り物」もバカミスではない、と感じておりまして、唯一センセの作品では「六色金神殺人事件」のみがバカミスであると思っているんですよねえ。まあ、そのあたりが世間の理解とはまた微妙に違っているんですけど、「六色金神」の脱力と衝撃があまりに凄まじかった故、自分の中では誰をさしおいてもバカミスといえばまずは藤岡センセ、というふうになってしまっている譯でして、このあたりは「六色金色殺人事件」を書いたセンセには本当に申し譯ないなあ、と思います。
その一方、センセの「バカミスと呼ばれたくない」宣言をきっかけに、作者としてのセンセが理解するところのバカミス、そして世間でのバカミス觀、更には自分の中でのバカミスとは何ぞや、というところをもっと突き詰めて考えてみたくなり、何かいいテキストはないかな、と探していたところ、本作を見つけたという次第です。
奥付によればリリースは2001年。この本が出た當事、「バカミス」という言葉がどれだけミステリファンの間に廣まっていたのか、今ひとつ判然としないんですけど、「六色金神殺人事件」のリリースが2000年と本作よりも先であるにも關わらず、本作の第四章「厳選!バカミスベスト100」の中にこの作品の名前はありません。
そのかわりにベスト100の中に竝べられている和モノの作品群はというと、例えば山田風太郎の「誰にでも出来る殺人」、「妖異金瓶梅」、泡坂妻夫の「乱れからくり」「しあわせの書」、霞流一の「オクトパスキラー8号」、「ミステリークラブ」、更には島田荘司の「斜め屋敷の犯罪」、辻真先の「天使の殺人」、連城三紀彦「私という名の変奏曲」、……って、個人的には「何故これがバカミスに?」と感じてしまうものばかり。
特に泡坂妻夫の「しあわせの書」はまだ何となく理解出来るとしても、「乱れからくり」と「私という名の変奏曲」に關しては、ちょっと、いや激しく違うような氣がするんだけどなあ、と考えてしまうのでありました。いや、勿論自分が敬愛する連城、泡坂兩氏の作品をこうして取り上げてくれるのは非常に、非常に嬉しいし、霜月氏の紹介文にもその作品に對する愛情が込められているのは十分に理解は出来るのですけど、……ってこれ、何だか藤岡センセが自作をバカミスといわれて絶贊にされていることに關してその複雜な心境を述べた時のコメントと同じではないか、と氣がついた譯です。
嗚呼、藤岡センセが感じていた気持というのはこういうことだったのか、好きな作家の作品をバカミスと呼ばれたぐらいで自分などはこれだけ当惑してしまうのだから、ましてやバカミスを狙って書いた譯でもないのに自作がバカミスと呼ばれてしまう藤岡センセの気持はいかばかりか。ここに至ってようやくセンセの気持が理解出来た次第です。馬鹿者です、自分。
小山氏が講釈するところのバカミスとは何ぞや、と「モルグ街」からその由來を面白おかしく語っていく「バカミス100年の歩み」は相當に讀ませるし愉しいんですけど、これを讀んで何となく分かったのは、小山氏を含めたバカミステリーズの方達にとってはハジケまくったユーモアも、キワモノも、破格のメタミステリも全てはバカミスであると。どうやらそんなかんじなんですよ。
ここが自分とは大きく違うところで、例えば本作の中でも取り上げられている山田風太郎の「蝋人」なんていうのは、自分にとってはバカミスではなくてキワモノミステリなんですよねえ。まあ、キワモノミステリっていうのは自分が勝手に使っているに過ぎないんでアレなんですけど、キワモノとバカはやはり自分の頭の中では区別されている譯です。
さらに霞流一氏の作品もバカミスというよりは超絶ユーモアミステリ、というか、そのやりすぎ感が確かにバカミスすれすれのところまで行ってはいるものの、自分の中ではやはりバカミスとはちょっと違うんじゃないかなあ、と思ったりしています。
とはいいつつ、本作の中でもこれは、と思った個所はいくつかあって、例えば小山氏が山口雅也氏にインタビューを行ったときの文章が掲載されているんですけど、その中で、小山氏が「密室の行者」ついて言及したところがありまして、
例えば「密室の行者」なんてのは有名な小説ですけど、密室状態の中で餓死している行者の謎を解くじゃないですか。あれもなぜそんなことしなけりゃいけないのかってのがね。
「何でそこまでするの」と讀んでいるこちらが頭を抱えてしまう物語というのは確かに自分の中でのバカミス觀にかなり近いものがあるような氣がしましたよ。その點では福井氏が挙げている島田御大の「斜め屋敷の犯罪」を「世界最高のバカミスのひとつ」と評價する理由も十分に理解出来る譯ですが、それでも何か完全には自分の中で納得できないものがあったりするんですよねえ。
で、それは何なのかと色々と考えてみたところ、どうやら物語世界を支えている主題なり仕掛けがバカがどうか、というところが自分の中では重要なのではないか、と。「六色金神殺人事件」は當にその點が素晴らしく、藤岡センセの言葉をそのまま引用すれば、「頭を使えば、どんな不可能犯罪を扱おうが「メタ」に堕することはないのだと証明してみせた」作品であり、そこが素晴らしい。勿論その眞相があまりにアレだったところから脱力唖然としてしまい、それが、否、それこそがこの作品をバカミスの傑作と自分が信じる所以な譯です。
そして「六色金神殺人事件」と同樣のアプローチで、物語世界をメタに堕とさず、本格としてのゲーム性を極めて優れたミステリへと昇華させた傑作が林斯諺の「尼羅河魅影之謎」で、こちらも明らかとなった眞相は藤岡センセのアレを髣髴とさせるところがバカミスで、さらには探偵と勝負する為にわざわざツアーの手配までしてエジプトまで呼び出すというところが凄まじく強引。
「探偵とタイマンはりたいっていうのは分かるんだけどさ、何故にエジプトくんだりまで?」という読者の素朴な疑問を置き去りにして展開されるあまりに本格ミステリ的な物語と、精緻なロジック、そして謎解きとのミスマッチ。それ故に「尼羅河魅影之謎」は「六色金神殺人事件」と同樣、バカミスの歴史的傑作としたい作品なのですけど、どうも台湾のミステリマニアの間では本作をバカミスとして評價する意見が見られないのは寂しいところ、……って、「尼羅河魅影之謎」のレビューのところではネタバレを回避して「六色金神殺人事件」の名前は出さなかったというのに、こんなところで出してしまっていいのか、とここまで書いて氣がつきましたよ(爆)。
結局バカミス觀は人それぞれ、あなたが感じるバカミスがバカミスである、という何ともしっくりこない、でもこれでいいんじゃないの、とユルい結論になってしまうんですけど、まあ、本格推理小説の定義とは、みたいかんじで原理主義者が喚き散らすのも相當に鬱陶しいし、バカミスはとりあえずこんなもんでいいんじゃないの、と思うのでありました。ただ、藤岡センセの気持も考えてあげましょうよ、皆さん、と、いうところて今日は終わりにしたいと思います。おあとが宜しいようで。
[05/11/06: 追記]
こういう作品のリンク先を間違えていたことに今頃気がつきましたよ。修正しておきました。