前回の續きです。座談會の中では、日本の現代ミステリと台湾ミステリとの比較が、日本からやってきたボンクラのプチブロガーの手によって行われたのですけど、今回はこれについて簡單に纏めてみたいと思います。
まずこの座談會の冒頭で、台湾ミステリは日本のミステリと比較して歴史が浅いという指摘を行い、しかしその一方でそれが台湾ミステリにおいて不利となるようなことはない、ということを述べました。日本において綾辻行人氏が「十角館の殺人」でデビューし、新本格が始まってから今年で二十年となる譯だけども、では台湾ミステリが現在の日本のミステリの水準に達するまでに同様の年月を要するだろうか、自分はそうは思わない、と。
というのも、現在の台湾ミステリの作品と日本のミステリを比較してみた限り、少なくともその技巧と技法という面においては日本のミステリと何ら遜色のない水準にあるように思える、というところから、それぞれの作品を取り上げて比較分析を行っていきました。
まずは台湾ミステリの最先端を行く技巧派、冷言氏の「空屋」と、これまた日本の現代本格を牽引している一人、道尾秀介氏の「向日葵の咲かない夏」「シャドウ」の二册を取り上げて、両者の作品を「物語の二重構造」、「高度なミスディレクションの技法」、「表の謎と裏の謎」という三つのキーワードからその共通性を探ってみる、という趣向です。
「物語の二重構造」というのは、物語の進行を促す「事件」としての謎と、物語の結構を支えている謎の二つを意味し、ここでは未だ飜譯がなされていない「向日葵の咲かない夏」のあらすじを簡單に述べるとともに、この作品の構成について説明を行いました。
次に「空屋」における「空屋」そのものが喚起する謎を表とし、その謎それ自体がもう一つの裏の謎を隠蔽するためのミスディレクションとして機能しているこの小説の秀逸な構造を解き明かし、道尾作品と冷言氏の「空屋」には、一本の直線のみで物語が進行する古典ミステリとは違って現代本格の風格が感じられる、――というようなかんじで纏めてみました。
次に、日本からは島田御大の「眩暈」と連城三紀彦氏の「暗色コメディ」を取り上げ、それを既晴氏の「魔法妄想症」、藍霄氏の「錯置體」の二大傑作長編と、凌徹氏のこれまた傑作短編である「幽靈交叉點」と竝べてみました。
ここでのキーワードは「魅力的で独創的な謎の創造」と「コード型本格からの逸脱」の二つでありまして、まずすべてのミステリが密室殺人だったら毎日ミステリは讀みたくなくなるのではないか、「本格の鬼」は別にして普通のミステリファンだったら、毎日毎日密室殺人ばかり讀まされたら確実にドン引きしてしまうのではないか、というようなことを述べました。
つまり現代のミステリに必要なのは新たな謎の創造であって、それは今までになかったような独創的なものでなければならない。島田御大の「眩暈」を取り上げたのは、この考え方から観客の方々に御大の「本格ミステリー論」を想起してもらいたかったからでありまして、連城氏の「暗色コメディ」も物語の前半に提示される不可解な謎の數々は確実に讀者の興味を惹くだろう、ということを述べつつ、上に挙げた台湾ミステリのいずれもが古典作品とは離れたところで非常に独創的な謎を既に作り出すことに成功している。
しかしミステリの魅力は勿論、謎だけではない譯で、謎解きそのものの愉しみというものも見逃すことは出來ないでしょう。そこで次に取り上げたのは有栖川有栖氏の「スイス時計の謎」。これに台湾を代表するクイーン派、林斯諺氏の「羽球場的亡靈」をぶつけてみました。
ここでのキーワードは「物語の人工性」と「謎解きの愉しみ」の二つでありまして、ミステリという物語構造の中で發生する「事件」と現實の「事件」との相違を指摘しつつ、ミステリ小説において眞相を導き出すための論理に説得力を与えるためには人工的な物語空間を構築する必要がある、そうしないと探偵には無限の可能性を検証する必要が生じてしまう譯で、それを回避しつつ讀者に對して説得力のある推理を提示出來なければならない。
「スイス時計の謎」において描かれる「事件」は、論理による謎解きを突き詰める為だけに構築された人工的な空間であって、この人工性という點において「羽球場的亡靈」を比較分析してみました。
またここでは、「一つの眞相」に至る為、作者がどのような周到な伏線と物語空間を構築したのかということを知る為、時には作品を再讀する必要もある、という指摘も行いました。特に「羽球場的亡靈」の精緻な伏線と、犯人限定を行う為に作者が留意したと思われるいくつかを指摘しつつ、「謎解きの愉しみ」を有する良質なミステリ作品は時に再讀することによって初めて作者の周到な意図をくみ取ることが出來るのだ、――というところで纏めてみました。
次に昨年の超話題作である東野圭吾氏の「容疑者Xの献身」を取り上げて、これを既晴時氏の連作短編集「獻給愛情的犯罪」と比較してみました。現代本格における倒叙形式の特色を述べつつ、「倒叙のくずし」と「ジャンルをトリックへと昇華させる技法」をキーワードに、「容疑者X」がそのミステリ的技巧によって描き出した主題と、「獻給愛情的犯罪」が倒叙の「くずし」と連作短編という構成を活かして描いた主題の相違について、特にその「重み」に留意しつつ、二作の違いについて簡單な説明をしてみた次第です。
しかしどうでもいいことなんですけど、「容疑者X」のジャケがスクリーンに映し出された瞬間、観客席から「クスクス」とも「グフグフ」ともつかない妙な笑いが漏れ聞こえたのはかなりアレ(爆)。
まア、それだけ「容疑者X」問題は台湾のミステリファンの間にもスッカリ知れ渡っているということでしょう。勿論あの失笑から察するに、これも「容疑者X」という作品に對する「問題」というよりは、あの作品にアレした「あの人」についての「問題」であると推察することも可能かと。
最後に、綾辻行人氏の「十角館の殺人」と寵物先生の傑作短編「名為殺意的觀察報告」を取り上げつつ、「本土化」をキーワードに「名為殺意的觀察報告」の作品についてその仕掛けの簡單な分析を行って終わりとしました。「名為殺意的觀察報告」はその倒叙形式に見事なミスディレクションを凝らした仕掛けから「容疑者Xの献身」と比較することも可能で、その多彩な技巧から色々な意味で正に現在の台湾ミステリを代表する傑作といえるのではないでしょうか。
日本の現代ミステリと台湾ミステリをその技巧と技法において比較する、ということには二つの狙いがあって、一つは台湾ミステリが日本のミステリと比べられた際に、その歴史の浅いところから日本のミステリよりも劣っているのではないか、という漠然とした印象をもたれている可能性がある。そこで台湾ミステリが持っている技巧面から分析しつつ、まずはそういう先入観をシッカリと払拭しておく必要がある譯です。
もうひとつは台湾ミステリが日本のみならず、世界に認知される為には、日本の現代ミステリの技巧や風格を参考にするべきであって、黄金期のミステリの安易な模倣に陥ることは好ましくないのではないかと考えているからでありまして。
またここに敢えてもうひとつ、未だ台湾では紹介のされていない道尾秀介を取り上げた理由を述べますと、日本における最先端のミステリをその技巧と技法から評價してその作品の魅力を伝えることは、そのまま技法と技巧面において優れている台湾ミステリの認知と評價にも繋がるのではないかと思ったからです。
この周年會の後に来賓を招いての晩餐があったのは前のエントリで伝えたとおりで、ここでも様々な話題で盛り上がりました。台湾推理倶楽部のメンバーの方々の、台湾ミステリをもっとモット盛り上げていこう、という熱い思いに共感しつつ、また島崎御大や既晴氏など台湾の作家の方々と話をする中で啓発されるところも多々あり、今回の訪台では非常に貴重な体験を得ることが出來ましたよ。
まア、プロでも大御所でもないボンクラのプチブロガーゆえ、このブログでどれだけの日本のミステリファンの方々に台湾ミステリの現在の熱氣を傳えることが出來たものか甚だ心許ないのですけど、今回は来賓として権田先生も周年會に出席されたということもあって島崎御大とのお話なども含めて後日、先生から今回の台湾推理倶樂部の周年會の樣子が語られることがあるかもしれません。期待したいと思います。