つい先日ここで取り上げた歌野氏の問題作「世界の終わり、あるいは始まり」なんですけど、讀了後數日を經た後も、何かこう、うまくいえないモヤモヤ感が残っておりまして、「作品の毒にアタった」ともいえるこれって一体何なんだろうなア、とずっと考えておりました。
で、達人巽昌章氏の大傑作「論理の蜘蛛の巣の中で」を再讀していたら、このモヤモヤ感の謎を解くヒントを見つけたので、今日はこれについて書いておきたいと思います。以下、「世界の終わり」のネタバレを含むので未讀の方は御注意のほどを。
それは「論理の蜘蛛」第四回、「盤から落ちるもの」や第十九回「蘇る時間」で言及されている「二度の語り」というもので、些か長くなるんですけど省略しつつざっと引用すると、こんなかんじ。いつもと同樣、注目すべきポイントは強調してあります。
ところで、推理小説が二度の語りを備えているということは、順にページを繰って読み進む読者にとって、小説が二重の印象を与えていることを意味している。……推理小説を読み終えた者にとって謎あるいは事件の経過は、常に解決と共存し、二重映しの像となってその作品の印象を形作るのではないだろうか。……善良な紳士が実は殺人鬼だったとしよう。暴露された血みどろの真相は、それまで描き出されてきた暖かな笑顏や内気そうな声音、子供を抱き上げようとする指先の記憶の上へと重ね合わされる。これまで見てきた笑顏と鬼畜の風貌と、そのいずれもが「事実」であるというしかないだろう。
もっともそれは、たた単にだぶって見えるというだけのことではない。たとえば、登場人物たちの人生に寄り添い、彼らの喜怒哀楽に立ち会ってきた読者は、彼らが犯人に踊らされていたことが暴かれたとき、いいようのない空しさも覚えもするだろう。二度目の語り、つまり「真相」は抽象的な要約であり、その非情な図式は登場人物たちの生の営みを強引に説明しようとして、いわばそこに空洞をうがつ。……
讀者の前に提示される「推理」が父親の愚かな「妄想」に過ぎないという違いがあるとはいえ、前半に示された「物證」を根拠に父親が偏執的にかたちをかえて事件の「眞相」をつくりだしていくという構成だけに目を向ければ、多重解決ものと變わるところはありません。
しかし本作が多重解決ものと大きく異なるのは、「推理」が「妄想」に過ぎないというところではなくて、それぞれの「妄想」に重みを與えて展開されるその構成にあると思うんですよ。
物語は「事件編」と「妄想編」に大きく分かれているとはいえ、タイトルが書かれているだけで、本作の目次を一瞥しただけではこの構成に氣がつくことはありません。そして、前半部は「顏見知りのあの子が誘拐されたと知った時、……わが子が狙われなくてよかったと胸をなでおろしたのは私だけではあるまい」という妄想パパのモノローグめいた語りで幕を開け、この一人語りはそのあとも「悲惨な事件の連鎖はどこまで続くのだろう」とか「偽りが不幸をもたらすのではない」とかいうかんじで各節のさわりに登場、そして最後は「未来は運命ではなく、神が賽を振った結果でもなく……」というモノローグで前半部の「事件編」は終わります(*)。
しかしここに周到な仕掛けがあって、前半部はモノローグのあとに各節が始まるという構成ゆえ、ボンヤリ讀み進めていると、「事件編」の最後に添えられた「未来は……」の一人語りを前半部の結びとは氣がつかず、前半部の次節の「始まり」として讀んでしまう、……というか自分がそうだった譯ですが(爆)。
そういう間違った讀み方をしてしまうとどういうことになってしまうか。後半部の最初に語られる妄想というのは、小市民パパにしてみれば當に煉獄ともいうべき凄まじい内容でありまして、息子は警察に逮捕、家族はマスコミから執拗に追いかけられ、近隣住民も含めた一般人からは非難囂々、ヤクザのご近所さんから怪しい保險詐僞のテクニックをおすすめいただいたり、さらには信じていた息子からは自分が全部がやった、だってお金欲しかったんだモン、とカミングアウトされるわ、最後に娘がキ印に誘拐され殺されてしまうという最惡のシナリオ。
しかしこの妄想の最後に「だめだ……」というパパの一言が加わることで、讀者はこれまで述べられてきた内容が妄想だと氣がつくという構成です。
本作はパパの妄想が延々と語られる作品である、ということは知っていたんですけど、上に述べたような構成の仕掛けにスッカリ自分は騙されてしまった譯です。この仕掛けは前半部の誘拐殺人事件と後半「妄想編」のパート1で語られた物語世界を地續きのものとして讀者に知覺させるのに絶妙な効果をあげていて、結果、ボンクラな自分のような讀者は、このパパの妄想がつくりだした最惡のシナリオを「事実」として讀み進めていってしまう。
勿論パート1の最後にこれが妄想であることが明かされ、自分の頭の中の誤りはすぐに修正される譯ですが、しかしそれでも、この最惡の展開を回避する為に繰り出されるパパの妄想物語の背後には、さながら「二重写し」の像となってその最惡のシナリオが妄想ではない「事実」として見えてきてしまう。
妄想であると修正されたにもかかわらず、その最惡の事態を想定した妄想があまりに強烈な印象ゆえ、自分は後半部の物語を「殺人鬼の息子のために幸せ家族は一家離散、さらには娘までもがキ印に殺され小市民パパは遂に發狂、そしてこの耐え難い「事実」から逃れる為にパパは妄想ワールドで「ありえた筈の世界」にダイブ・イン」、……みたいなかんじで、物語を最後まで讀んでしまった譯です。
次々と繰り出される妄想世界で、小市民パパは家族を守る為には殺人も厭わず、それでもその小市民精神ゆえに自身の生み出した妄想にも敗北を繰り返します。そして延々と續くかに思われた妄想は、殺人犯人の息子という最惡の「妄想」から、妻の不貞という、自分の家族をも卷き込んだ新たな悪夢を生み出すに至る。
最後に物語は事實の探究というミステリ小説としての御約束を抛擲し、巽氏のいう「抽象的な要約」を繰り返した末その必然として生み出された空洞の中へ、明るい家族のワンシーンを描き乍らもさりげなく不穩な未來を予感させる情景をもって締めくくります。
推理小説が備えている「二度の語り」という特性を用いて、強烈な妄想を「事實」と錯誤させる仕掛けの巧みさ、さらには樣々な妄想が現出させる多重露光的な虚像の歪みといった趣向を「仕込み」として、妄想世界の果てに穿たれた空洞の中へ仄見える不穩な未來を描いてみせる、……この巧みな「仕掛け」こそは自分のようなボンクラな讀者の感覚を搖さぶり麻痺させるミステリの「毒」であり、そしてこのモヤモヤ感の原因なのではないかなア、と思った次第です。
まあ、こんなふうにこの作品の仕掛けを深讀みしてしまうのは、自分のような注意力散漫な人間だけなのかもしれませんが(爆)。しかし本作を讀了したあと、なおもいいようのないモヤモヤがアレだなあ、なんて方がおられましたら、ここで書いた内容を思い出していただければと思いますよ。
[11/01/06:追記]
(*)しかしこの最後の一人語りは、後編となる「妄想編」の冒頭に添えられたものとして讀むことも出來るような、というかこちらの方が正解かもしれません。そうするとモノローグを添えてその後に本編である妄想を展開させるというそれはは前編とまったく同じ構成ということになるんですけど、前編の最後であれ、後編の冒頭であれ、結果としては同樣の効果を狙ったことと考えられるので、ここでは訂正せずにこのままにしておきます。