恒川氏と宇佐美氏目当てで購入。ジャケ帯には「人気作家たちの競作による、列島各地の怪談奇聞小説集」とあって、「怪しいディスカバー・ジャパン!?」という惹句には思わず苦笑してしまったのですけども、恒川氏から宇佐美氏まで順番にイッキ読みすると、沖縄から北海道まで北上しながら日本各地の奇譚をイッパイに堪能できるという趣向が面白い。
収録作は、沖縄を舞台にある怪異を引き寄せる楽器を手にしてしまった男が土地の祟りを極上のセラピーへと變幻させる傑作、恒川光太郎「弥勒節」、高貴な家柄の生まれと思しきグレ男が突然の手紙に導かれて自らの出自の不可思議を知ることになる長島槇子「聖婚の海」、いじめらっ子のボクちんが狂気と怪異のはざまで土地の呪縛に接続する水沫流人、「層」。
大阪弁ならでの流麗な口調で霊魂との哀しき交流を綴った有栖川有栖「清水坂」、列車の中が怪異と繋がりテンテコマイになる様をユーモアも交えて描き出した雀野日名子「きたぐに母子歌」、山北を舞台に不条理とイヤ感の調合によってふしぎな物語を紡ぎ出す黒史郎「山北飢談」、タイトル通りの日本橋観光を巧みな筆致によって幽界巡礼へと変幻させる加門七海「日本橋観光―附四万六千日」、軽妙な土地語りが温泉旅館に冥界を引き寄せる勝山海百合「熊のほうがおっかない」、北海道ツーリングで事故った主人公の悲哀に引き算の技法も交えて霊との交流を美しく描いた傑作、宇佐美まこと「湿原の女神」の全九編。
何しろ競作といっても、それぞれがまったく風格の異なる作品ばかりというわけで、こうなるともう完全に個人の好みの問題かなア、という気がするんですけど、自分としてはやはり圧巻だったのは恒川氏と宇佐美氏の二編でありまして、その物語の素晴らしさは期待以上。
とにかくその魔術的な筆致によって幽玄幻想の世界を活写させれば向かうところ敵なし、という恒川氏の一編、今回は地元の沖縄を舞台にした物語で、その土地の曰くを鏤めながら、あるブツをある人物から引き継ぐことによってその因業をも抱えることになってしまった人物が主人公。
とにかく本作が見事なのは、その眩暈のするほど美しい怪異の描写でありまして、後半、例によって物語をいっとき中断させ、そこに挿入される逸話によってイッキに怪異の幻想世界へと引き込んでいくという絶妙な「間」の効果。もうひとつ特筆するべきは、俗世間的な目から見れば、ここに描かれるある怪異の存在は明らかに「祟り」と呼ぶべきものなのですけども、本編ではそうした世俗を連想させる言葉を敢えて用いずに、すべてを主人公の視点に託して魂が癒されていくシーンに昇華させてみせたところが素晴らしい。文句なしの傑作でしょう。
宇佐美氏の「湿原の女神」も大きな収穫でありまして、、今回は「るんびにの子供」や「虹色の童話」でも見られた氏の得意技でもある「女から見たイヤ怖い視点」を封印して、哀しき業を持つ主人公の物語を見事に活写しています。
バイクを走らせていると、ミラーには執拗にこちらを追いかけてくるバイクがいて、――なんていう冒頭のシーンからは三流怪談を連想してしまうのですけども、物語はそうした俗っぽい定番とは無縁、主人公がバイクの事故によって片足を失ったところからが本番です。
やはり見事なのは、冒頭から主人公の属性についてあることを巧みに隠しながら、後半でそれをイッキに明らかにしてみせるという、ミステリにも通じる技法を用いているところでありまして、ここに主人公の側にいる人物の哀しみや、またこの今を引き寄せることになった主人公の無意識を最後に解き明かしてみせることによって、最後に現出する怪異を美しいものへと昇華させるという結構も完璧です。
主人公も含めた登場人物の造詣も巧みで、特にちょっとしたエピソードとして語られる主人公の家族の描き方がうまい。278pにもある「やっぱりあの時……」から語られる主人公の内的独白を目にしたあと、再び件の冒頭の場面へと戻ると、また何ともいえない悲哀がこみ上げてきます。
もう一編、見事だと思ったのは加門氏の「日本橋観光―附四万六千日」で、日本橋界隈をさまよううち、周囲の情景が幽界へと變じていくさまを巧みな筆致で描き出しています。そして霊との交流が極上のセラピーへと轉じる幕引きによって、その土地と地霊の歴史を主人公とある霊との交流の物語へと封印してしまう見事さ。一文一文をじっくり讀むことによって現実世界が幽界と交わっていく描写を堪能できるという一編でしょう。
その他の作品については、まず黒氏の「山北飢談」は何だかあせごのまんフウの風味を効かせた不条理と恐怖の境界線を綱渡りしてみせた一編で、何だか讀後にモゾモゾしてしまう一編でした。イヤ怖いという点では水沫氏の「層」がピカ一で、この主人公の感性との「ずれ」が醸し出す落ち着かなさが何だか結城昌治の「孤独なカラス」を彷彿とさせてイヤーな感じ。長島氏の「聖婚の海」は、最初の曰くがこうしたオチへの伏線だったことにチと吃驚。怪談というよりは、皆川女史にも通じる耽美幻想小説の風格です。
有栖川氏の「清水坂」は大阪弁を巧みに用いた語りは見事ながら、「赤い月……」を讀んだ今となってはチと物足りないというか。勝山氏の「熊のほうがおっかない」は、キワモノミステリマニアとしては「ぞなもし」といわれるどうしてもまほろタンを連想してしまう譯で(爆)。それでも土地語りの後に不意打ちのようなかたちで現れるほのぼのな怪異に心が和みます。雀野女史の「きたぐに母子歌」は、「ぞんび団地」をさらに激しくしたユーモアセンスにチと吃驚。
いずれの収録作にも霊との交流が様々なかたちでの癒しへと轉じるという結構が感じられ、怖いというよりは、そうした霊や異界と現実世界にいる人間との「関係」に主軸をおいた風格が際立っています。いたずらに怖さを求めるのではなく、異界や霊を通じて人間のドラマを描き出すという作品は、ともすれば怪談ジャンキーから「こんなの怪談じゃねえジャン」なんて言われそうなのですけども、こうしたセラピー的要素も射程に入れた怪談物語は、巷に溢れかえったベタベタの感動物語に見られる押しつけの「癒し」とは趣を異にするように思えるし、その一方で、逆に「癒し」を前面に押し出していけば、怪談文芸もマニアのみならず一般的なブームになる可能性だってあるのでは、――なんてことを考えてしまいます。
「anan」か「CREA」あたりが、「いま『怪談』に癒される――奇談語りは極上のセラピー」なんてかんじで特集を組めば、何しろ究極の癒しを得るためだったら渋谷のスクランブル交叉点でハラキリだって厭わないというスイーツ娘が大増殖中の昨今(嘘)、「anan」あたりは「女流一眼 華厳の滝で心霊写真に挑戦」とか「おしゃれなワンセグケータイで霊界電波を受信」みたいなかんじでメーカーとのタイアップ記事を企画することも可能だろうし、……と本書を読みつつ、「怖さ」一辺倒からしなやかに離脱しつつある「怪談」の将来に期待してしまうのでありました。