魔都に醉う。
待ちに待った「外地探偵小説集」の第二彈、上海篇がついにリリースされましたよ。滿州篇では城田シュレーダーなどのレアものも収録し、あの時代の濃厚なテイストをギュウギュウに詰め込んで、マニアを大滿足させてくれたシリーズですから、本作上海篇もゲットしない譯にはいきませんよねえ。
まず素晴らしいのは、本作に収録された作品の舞台となる当時の上海についての説明がなされた導入部で、「探偵小説的上海案内」と題された編者藤田氏の文章を讀み進めていくうちに、頭の中はすっかり陰謀謀略渦卷く當事の魔都上海にトリップしているという按排で、竹中英太郎テイストがムンムンに溢れ出している挿繪もまたナイス。グレゴリ青山女史、本當にいい仕事してます。
収録されている全九編はいずれも小粒ながら、こうして當事の上海をモチーフにした作品を纏めた一册の本からは獨特の香氣が発せられていて、そこがいい。最初を飾るのは松本泰の「詐欺師」。あらすじを簡単に纏めれば日本人の質屋が狡猾な中国人の客に騙されてしまうというオチなんですけど、この市井の人間の日常を小咄ふうに纏めた本作を経て、次の米田華コウ(舟に工)の「掠奪結婚者の死」からは陰謀渦卷く怪しい上海世界が描かれていきます。
中国人探偵のもとにある男が訪ねてきて、もし自分が不可解な死を遂げた場合、それは絶体に殺人である、なんて手紙をおいていったのですが、暫くして本當に男が死んでしまう。どうやら男は毒殺されたようすで、刑事が嫌疑者として勾留されてしまうのだが實はそれには裏があって、……という話。毒殺の方法などいかにもミステリらしいトリックも用意されているものの、奸計とその動機が何とももの哀しい。まさにこの時代の物語であることを意識した作品でしょうか。
白須賀六郎の「九人目の殺人」もこれまた、ダンスが好きな男たちが次々と殺されていく事件をとある新聞社の記者が語るというもので、最後に探偵が登場して事件の謎を解くものの、犯人の計略にあって探偵も死んでしまうという幕引き。國際魔都という名前から工作員を交えて謀略陰謀を背景にした殺人事件かと思いきや、まったく動機を異にする犯人が明らかとなるところはある意味意外。
木村荘十の「国際小説上海」は探偵と怪人の對決を描いたもの乍ら、探偵は完全に負け役。謀略小説には欠かせない味方の裏切りや、愛人も交えて小氣味よく展開されるお話で、最後の最後、ピンチに陷った敵方の怪人が女と一緒に探偵を翻弄してその場を逃げおおせる幕引きも愉しい。
竹村猛児の「盲腸炎の患者」は神戸で盲腸の手術を受けた中国人が上海に戻ってくると腹痛がとまらない。ブッ倒れていたところを日本人医師が助けるのですが、男の腹を開けてみると、……という話。まあ、予想通りの展開なんですけど、この謀略に絡んでいた上海在住の相方が、中国人の訪ねてこないのを訝って「盲腸手術無料で行いマス」みたいな看板をぶら下げたところ、全然關係のない貧乏な中国人患者が殺到してしまって、……という插話が妙におかしい。
冬村温の「赤靴をはいたリル」は収録作中では一番好きなお話で、憲兵隊の嘱託で仕事をしている日本人が主人公。憲兵男が敵の特務工作員に手ひどい拷問をかけても口を割らないのに痺れをきらし、男が持っていたという女ものの靴をたよりにその靴の持ち主をしょぴいてこい、という命令を主人公は受けるのだが、……という話。この女というのがユダヤ系のロシア人の通称上海リルで、主人公とは顏なじみ。何しろこの憲兵男、主人公の語りによれば、
「女の足を両方にひろげて縛りつけ、火のついた煙草を大事なところに押しつけるなんて、ゼンゼン女を口説ける人じゃないですよ。可愛そうにその女、舌を噛み切って死んじまったじゃありませんか。元も子も無しだ、ははは」
ってあまりにベタな拷問方法を嬉々として(多分)行う輩ですから、憲兵以前に病的なサド男であることは間違いなく、「日本思想とかいうものは、一つかけらも持たない男」で「女をいたぶりながらも妙にフェミニスト」という複雜な心情の持ち主である主人公が憲兵男に女を引き渡す筈がありません。しかし、女をいたぶるのが好きだけど、フェミニストっていったいどういう男なんでしょうねえ。
結局日本は戦争に負けて、主人公は船で青島に行かなければならない。彼は靴職人だったリルに軍靴の踵に引き出しをつくってもらい、そこへ金を隱して逃げようとするのだが、……というところで最後のオチが何とも哀しい。愛嬌があって小狡い、しかし心の中には哀しみを溜めていて、……というリルの造詣が見事に決まった好篇でしょう。
戸板康二の「ヘレン・テレスの家」は上海を舞台にしながらも、登場人物の殆どは日本人という物語で、一人の女を二人の男が同時に愛してしまいます。で、彼女が好きだった方の男性が自殺してしまうのですが、それがどうも自殺には見えなくて、……という話。その女の娘がかつて事件のあった家を訪ねてゆくのですが、そこで事件の真相を暗示するあのものを発見します。
死の真相もさることながら、そういうかたちで男の死が導かれるにいたった動機が何とも切ない。裏切りというか、些細な嘘が哀しい事件を引き起こしてしまったという點で、登場人物は日本人ながら、本編に収録された作品の共通テーマである「騙し」と「裏切り」が作品の通奏低音となって讀後に餘韻を残す傑作でしょう。
南條範夫の「変貌」は、久しぶりに再會した男は顏にひどい疵を持っていて、その男が私に疵の由來を語る、……という話。ここでもリーザという可憐なロシア少女が登場、彼の顏の疵は彼女のために受けたというのですが、真相はちょっと意外。語りの仕掛けが冴えている一品でしょう。しかしリルといい、本作のリーザといい、女性がどれも魅力的でいて、もの哀しい。というかロシア人の美しい少女っていうだけで完全にノックアウトですよ個人的には。この作品もかなり好きですねえ。
生島治郎の「鉄の棺」は、中国人と日本人のハーフの工作員が主人公で、青幇に狙われているという主人公を中佐は船に乗せて内地へと逃がしてやろうというのですが、そこには主人公を陷れる策略があって、……という話。主人公や、逸話の中に登場する少女など、藤田氏の解説によれば、作者の精神性が大きく反映されているとのこと。ハーフで、国に對する所属意識を持たない(持てない)主人公という設定が、悲劇を暗示させる幕引きとも相俟ってこれまた何ともな餘韻を残す佳作。これもいい。
というわけで、小粒だ何だといいながら、後半はなかなか心に迫る物語が多く、魔都上海の雰囲気もムンムンで、非常に滿足できる一册でありました。藤田氏によればシリーズ第三彈は南洋篇とのことでこれまた期待してしまうのですが、いったいいつのことになるか、まあ氣長に待ちたいと思いますよ。
しかし今氣がついたんですけど、編者の藤田氏って、このテのネタに詳しいからすっかり戦争体験者のおじいさんかと思いきや、何と1968年生まれ、……って自分より一つ下ですよ。これまた舊作の傑作名作の発掘編修でマニアにも人氣の高い日下センセも確か同い歳。68年生まれって何かあるんでしょうかねえ。