大傑作。
本作は、「21世紀本格」に収録されていた「メンツェルのチェスプレイヤー」の續編。しかしその作風から、「ドグラ・マグラ」、「姑獲鳥の夏」、そして「奇偶」の系譜に連なる幻想ミステリと考えることも出來ると思うのですが如何。
當事の變格ミステリらしい怪しげな雰囲気の横溢した「ドグラ・マグラ」とは勿論その作風は大きく異なる譯ですが、近似した主題を今日的な手法で見事な娯樂小説へと結実させた作者の手腕には脱帽しました。と同時にこの作品がミステリ作家によって書かれなかったのがちょっと悔しいというか。
特に後半、衒學めいた議論が延々と続いていくようすは、「姑獲鳥の夏」や最近取り上げた「奇偶」にも通じるし、逆にいうと「姑獲鳥の夏」や「奇偶」がミステリで通用するというのであれば、本作も十分にミステリであるといっていいでしょう。
實際殺人事件は起こるし、カギ括弧つきではありますが、「密室」「事件」も起きます。さらにはこの密室殺人事件にはミステリ的な仕掛けもあるし、驚愕の眞相もあるし、……とこれだけ挙げれば本作を普通のミステリとして讀み解くことも十分に可能なのでしょうけど、どうにもそれを躊躇ってしまうのは、冒頭、クイーンの「最後の一撃」からの引用が暗示する通りに、本作では後期クイーン問題を中心に据えて物語が展開していくからでありまして。
つまり作者は確信犯的に、メタなレベルでミステリを書こうとしており、それ故に本作を讀み進めていくにつれて、展開する物語は犯人捜しを扱っているにも關わらず、その内容がミステリの規範から大きくはみ出していく印象を受けるのです。更には後期クイーン問題を大胆にも哲學的な段階にまで昇華させ、人間、自我、自由意志、宇宙などといったSF的な主題へと突き拔けてしまうのですから驚きです。
このあたり、ミステリ的な規範を突き詰めていった結果、最後にはミステリの枠組みを大きく飛び越えてしまった「奇偶」に何となく似ているような氣もしますねえ。
物語は大きく三部に分かれていて、その前後にプロローグ「クイーンをビショップの3へ」とエピローグ「クイーンをビショップの6へ」が添えられ、プロローグではこの後の三部に亙る密室事件が暗示されています。
この夜、まだぼくは知らなかった。再びぼくたちがチェスに関する事件に卷き込まれることを。すでにぼくたちが「デカルトの密室」と呼ばれる見えない檻の中に閉じこめられていたことを。今度はあのチェスのロボットのように簡単には済まなくなる。密室はひとつではない。はじめにユウスケが消え失せ、機会の密室に閉じこめられる。そしてレナとぼくたちは、さらにふたつの密室の謎を解かなければならなくなる。……
ここで述べられている「機械の密室」の発想はチューリング・テストの逆をいくもので、この発想が秀逸です。
第一部「機械の密室」では、十年前に夭折したと思われていた天才科學者フランシーヌが、彼女と瓜二つの「人形」(ドリー)を從えて人工知能コンテストの會場に現れます。彼女は夭折したフランシーヌその人なのか、それとも僞物なのか。僞物だとしたら彼女は人間なのか、ロボットなのか、という謎が三部を通してこの重厚な物語を牽引していきます。
フランシーヌは「機械は考えることができるか」という問題提起を行い、「人間は考えることができる」という問題を如何に考察するか、と問いかけます。そしてチューリング・テストを逆転させた或るテストを祐輔に提案し、彼はそれがフランシーヌの惡魔的な策略によるものと思いつつもその挑戦を受け入れる……。
この第一部の展開は當にハリウッドふうで、密室に閉じこめられ窮地に陥った祐輔と、彼の居場所を突き止めようとするケンイチたちとの活躍が併行して描写されていく場面は當に映畫的です。
ここで祐輔のロボット、ケンイチはフランシーヌの策謀に陷り、ロボットとして致命的なトラウマを抱えてしまうのですが、第二部では第一部で提示された主題を引き繼ぎながらも、フランシーヌともうひとりの天才、真鍋浩也の過去と彼らの陰謀が徐々に明らかにされていきます。
更にはタイトルにもなっている「デカルトの密室」の意味が提示され、ケンイチたちが不可解な密室殺人事件に卷き込まれていくのですが、この密室というのがロボットに圍まれた超近代的ビルの一室で起こったものでありながら、その仕掛けは昔の怪奇探偵小説的でありまして、その落差がまた不氣味な雰囲気を釀し出していていいんですよねえ。
そしてこの物語の集大成ともいえる第三部で、謎と陰謀のすべてが明らかにされます。
いよいよ黒幕と対峙したケンイチたちが、第一部、二部で示された謎と、その背後にある大きな哲學的主題を突き詰めていく議論がスリリングで、第一部のハリウッドふうのサスペンスとはまったく趣を異にした展開を見せてくれます。
後半の方は些か難解に過ぎて、頭の惡い自分には完全に理解出來ないところもあるのですが、それでも犯人と眞っ向から議論を挑んでいく祐輔たちの勇敢さに痺れましたよ。
第一部はハリウッド映畫的、續く第二部は正統派の探偵小説風、そして第三部が重厚な哲學小説といったかんじで、それぞれに趣向を凝らした構成が際だっている本作ではありますが、全体を見るとこれはロボットであるケンイチのビルドゥングス・ロマンとして讀み解くことも可能なのではないでしょうか。
「2001年宇宙の旅」と同じく作中で頻繁に言及されるのが、トールキンの「指輪物語」であるというのも、この物語の主題のひとつがケンイチの成長の道程を描ききることにあることを暗示しているのでは、と思ったりするのですが如何でしょう。
映畫的な描写の際だった第一部でサスペンスを愉しむのも良いし、第三部で炸裂する難解な哲學的議論に眩惑されるのもいい。さらには物語全体を讀み通して、ケンイチ「個人」の成長物語に感動するのも良しと、とにかく多用な讀み方、愉しみ方の出來る物語だと思います。
個人的には「姑獲鳥の夏」を讀んだ時と同じくらいの衝撃を受けましたよ。超おすすめ。