鬼畜エレジー。
ひとでなし、ろくでなし、あばずれ、變態佝僂男、自墮落牧師、小心者の倒錯者などなど、素晴らしすぎる登場人物たちが濃厚な鬼畜テイストを交えて織りなす最低人生の悲喜劇集。
クリスマス・イブとなれば、ミステリ讀みのブログといえどやはりそれに因んだものを、ということになる譯ですが、ずらりとキワモノばかりを取り揃えましたる當ブログと致しましては、ここでもやはりその系統のものをひとつ、ということになりますよねえ。
という譯で本日は、若人たちが甘い愛の言葉を囁きあう聖夜に相應しい一册、ということで、おなじみ怪奇探偵小説名作選から悪魔主義の大家、渡辺啓助の作品集を取り上げてみたいと思います。
本作はデビュー作「義眼のマドンナ」から御大の初期短編を網羅したベスト集でありますが、そのセレクトが素晴らし過ぎるんですよ。まずもって誰一人としてマトモ人間が登場しないという作品ばかりでありまして、偶に御大の作品にしては普通だな、と思っていても、その人物もまた悪魔の奸計に陥り最後には発狂してジ・エンドとなるなど、ひとたびこの啓助ワールドの魔窟に入り込んだが最後、誰ひとりとしてマトモな姿では歸さないぞ、という悪魔主義の横溢した作品がテンコモリです。
まず最初を飾る御大の處女作「義眼のマドンナ」は異國の淫賣窟で義眼の女に見惚れてしまった男の物語で、既に一作目からして異國趣味、不具者への妄執といった御大のテーマがしっかりと反映されているところが見所でしょう。少年俳優の私が公園で小説を讀んでいると、とある紳士が声をかけてきます。「小説などは何れにしても他愛ないものばかりですよ」と嘯く男は、「他愛ないといえば、私は昨晩到頭一人の女を殺してしまったのですよ」といい、そのことの顛末を私に語り出す……。
このオチは、當事の怪奇探偵小説では御約束ともいえるもので、カタルシスはないのですが、ここでは物語に鏤められたえもいわれる濃厚な變態節を堪能すべきでしょう。しかし実をいえばこれなどまだ相當に甘いほうで、次の「佝僂記」となると、物語の狂言廻しとなる男こそ凡庸乍ら、冒頭、この主人公が、大きな屋敷で佝僂が首を吊っているところを見つけるところから展開されるお話はもう、何が何だかというかんじです。
彼は洋館に侵入し、首を吊って死んでいる佝僂を見つけるのですが、その佝僂の描写の不氣味さは勿論、部屋の片隅で「ヤマセランコ、ヤマセランコ」と佝僂記が呟くシーンなど印象的な場面が續きます。彼が慌ててその場所を飛び出すと、洋館は全焼、果たして誰があの佝僂を殺して洋館を炎を放ったのか、とミステリらしい謎を殘して物語は進みます。
しかしほどなくして、佝僂の死は自殺であったことが明らかとなり、彼は死に先だって財産管理人に遺書をしたためて郵送していたことが判明します。その遺書というのが奇妙なクロスワードパズルになっておりまして、主人公は鸚鵡が呟いていた「ヤマセランコ」という言葉を手掛かりにそのパズルを完成させようとするのだが、……と話は進むものの、やがて主人公はヤマセランコの正体を突き止め、あの洋館で起こった出來事の全てが彼女の口から語られて物語は終わります。これが普通のミステリだったら、実は佝僂は自殺ではなくて、眞相はヤマセランコが犯人で、……という展開になる筈ですがそこは悪魔主義を標榜する御大の作品でありますから、幕引き前にも佝僂の卑劣漢ぶりがシッカリと描かれ、やはり佝僂は佝僂で惡者だったという、ミステリの定型を無視した素晴らしいラストで締めくくります。
「復讐芸人」もこれまた予想を裏切る幕引きがナイスな佳作で、冒頭からオンボロの帆船を舞台にして、船長の妾にジメジメとした恋慕を鬱積された重九郎というロクデナシのダメっぷりが描かれます。
この重九郎はひょんなことから船長の妾との不義を疑われ、妾もろとも船長の銃彈を浴びて暗い海原に放り出される。このまま話は重九郎を主人公にして展開していくかと思いきや、この海豹のような鈍重な重九郎が執念でもって船長の妾を連れて生還し、彼は船上の一件から数箇月して、兄の謙作を訪ねていきます。ロクデナシの重九郎は助けた妾を「こいつは俺の女房だ」と紹介するものの、船長の妾にしてみれば、命を助けてもらったもとはいえ、こんな醜男を相手にする筈もなく、この妾は重九郎の見ていないところで、実は妾が好きなのは貴方よ、なんて兄の謙作を誘惑にかかります。
結局兄はこの妾弥生を妻として、猛勉強の末に牧師となるのですが、或る日、「お前の贖罪はこれからだ」なんていう薄氣味惡い手紙を受け取るところからいよいよ物語は佳境に入っていきます。偶然にか奇妙な男が近づいてきて、牧師の兄に盲目の妹に會ってほしいと頼むのですが、勿論會ってくれ、などというのは表の言葉でありまして、妹を買ってくれ、というのが眞相な譯ですが、酒を飮んで醉っぱらった牧師がその妹を訪ねていくと果たして……。
表面上、物語は因果應報をトレースしているように見えるんですけど、実はそんな道徳倫理なんていうのはどうでもよく、牧師がひどい目にあって殺されるところを描きたかっただけなのでは、という鬼畜節が炸裂する後半がいい。
續く「擬似放蕩症」は自分をモテ男に見せたい小市民の卑しい男が主人公で、彼は美人な妻がありながらその完璧に過ぎる妻をヤキモキさせたくて仕方がない。指輪を買ったり、浮気相手からの手紙をデッチ上げたりと樣々な嘘をついて、自分が浮気をしているようなフリを見せて妻を困らせようとするのですが、そんな嘘がトンデモない事態を引き起こします。
とにかくこの作品、ドブネズミという綽名の主人公の卑しさがピカ一でありまして、それに反して夫の浮氣に当惑する細君の健氣さが描かれる中盤までの展開が一轉、當に卑しい小市民の悲喜劇を活写した幕引きは見事としかいいようがありません。
「血笑婦」も「擬似放蕩症」と同樣、大した男でもない輩が妙な氣を起こしたばかりにトンデモない受難を迎えるという幕引きが光っている佳作。主人公はフランスから歸ってきたという繪描きなのですが、この男、日本を出る前に或る姉妹と二股をかけておりまして、在佛中にその妹を描いた繪が盜まれたのをきっかけに、それがトンデモないことになって、……という話です。
變な氣を起こしたばかりに、二股をかけた過去が最惡の勘違いを引き起こし、それが男の最期に繋がるという悲喜劇はまさに悪魔的。アンマリな悲劇が喜劇に轉ずるという展開は當に癖になりますよ。
「写真魔」もまた小心者が妙な氣を起こしたばかりに悲喜劇的な結末を迎えるという作者らしい惡ノリが堪能出來る傑作です。冒頭の一文による語り手の私の自己紹介がこれまたふるっていて、「私はこの町裏に住む最も流行らない写真屋でございます」ですからねえ。
その小市民の写真屋が見つけた樂しみがいわゆる「のぞき」。寫眞機を武器に狙うは、白薔薇夫人と呼ばれる二十八歳の未亡人で、彼は樹によじのぼって夫人の寢室を寫眞機で覗き込むなり、彼女のアクビ姿を盗撮します。
それでもってこの「眉も睫毛も鼻梁も一点にクチャクチャと疊み込まれて、咆哮するケモノのように口腔が精一杯拡大されて、頬の筋肉が痛々しいまでに引き攣っている」夫人の醜態を寫した寫眞を持って、小市民の寫眞屋は夫人の宅を訪ねていく譯です。
小市民がやることといったら當然ひとつでありまして、その寫眞を夫人にカッと差し出すなり「ヘエせいぜいハズんで頂きたいもので」なんて、ブラック商会変奇郎の向こうをはって夫人を恐喝にかかるのでありました。
で、金を払って怒りにブルブルと震える夫人がネガを叩き壞しているのをこれまたコッソリと覗き見ながら呟いた男のひとことが素晴らし過ぎるんですよ。引用します。
フフン——ブルジョアの牝豚め、思い知ったか
そうして「影を盜んで売りつける商売」に目覺めた男はやがてトンデモないものを撮影してしまいます。そう、殺人現場。それも犯人は件の白薔薇夫人だっていうんだからただ事ではありません。さすればこの小市民の卑しい寫眞屋がやることといったら當然ひとつしかありませんよね。これまた男の台詞を引用させていただきますと、
奧さま——私です。また例の写真屋です。醜い悪辣な写真屋鳴海春吉でございます。またぞろ御取引に上がりました。今度の奴は少しはお気に召すかと思いまして。ヘッヘッヘヘヘェ……
奧さま——奧さま。御取上げ下さらなければ何時までも何時までも申上げます。気の永いこと、と、しつっこいことに掛けては春吉は自信がございます。けれどもこの御取引は時間の問題でございます。なにしろ他にも有力な買手がついております。それはもっとも新聞社や雜誌屋ではありませんが——もう一段凄いのが控えております。——ケ、イ、サ、ツ、——奧さまこの意味がお分かりでしょうね。
そうしてこの卑しい悪辣な写真屋は白薔薇夫人を籠絡させるに至るのですが、悪魔主義の御大の作品がこのまま小市民の大勝利で終わるハズがありません。メデタシメデタシと思ったが最後、次には奈落の底に突き落とされるというのが御大の作品の大法則で、これには何人たりとも逆らうことは出來ません。果たして白薔薇夫人を自分のものにしたかに思えたこの醜い悪辣な寫眞屋がどうなるのかは皆さんの目で確かめていただきたいと思いますよ。
續く「変心術師」は誰が一番のワルだったかというところの仕掛けが妙味を出している傑作で、主人公はこれまた冴えない小市民の青倉という男。同じアパートには牧師がいて、彼を訪ねてくる美しい少女に惚れているのですが、何しろ小市民でありますから、これまたジトジトと彼女の美しい姿を遠くから眺めているしかありません。そんな青倉に同じアパートの同居人である島田探偵がチョッカイを出したりするのですが、物語はこの美少女が、彼女のフランス語の先生である牧師と逢瀬をしているところを、小市民の青倉が目撃してしまうところから素晴らしい展開になってきます。
この牧師というのがトンデモないワルでありまして、自分は牧師であるということを十分に自覚してい乍ら神社の裏手でこの美少女といやらしいことをして愉しんでいる譯です。で、この美少女も、実は牧師の仕込みでかなりの性惡女へと変貌を遂げておりまして、このワル同志の二人の會話を引用すると、
「僕は、今の場合、全く滋野先生じゃないんだよ、ハッキリ断って置くが、今夜は悪魔に魂を売ったファウストだよ。だから、滋野先生なんて間違っても云ってはならんぞ」
「じゃ——なんて呼ぼう?」
「滋野じゃなけりゃ、なんだっていいよ。青倉とでも呼ぶか」
「だって、青倉って云うのは、貴方のアパートにいる男の人じゃない?——あの青んぶくれのさ」
「構わやしないさ、あの死にぞこないに取っちゃ、光栄の至りだろうて」
この牧師がワルでいる時は、青倉という小市民の名前を使っているところがミソで、やがてこの美少女が殺人死体で見つかり、彼女が殘していた日記が見つかるに至って事態はトンデモない方向へと転がっていきます。まあ、これだけお話したらだいたいその後の展開は皆さんも予想出來るかと思うのですが、まあ、そういうふうになっていく譯ですよ。そして最後に一番のワルの姿が明らかとなり、その人物の高笑いで物語は終わります。もう、小市民は小市民でしかない、という鬼畜な幕引きには笑うしかありませんよ。
何だか自分の惡い癖で、あまりに面白い話だとどうにもあらすじを書く筆がノリすきて文章が長くなってしまいます。これでもまだ本作の半分の紹介も出來ていないのですが、續きはまた明日にでも書くとします。うまく纏められなくてスミマセン。
節のタイトルのハジケっぷりが全部引用したくなるほどの大傑作「愛慾埃及学」、フリークスとなった男の復讐劇の眞相がトンデモに過ぎるこれまた傑作の「塗込められた洋次郎」、そしてタイトルにもなっている御大の悪魔主義が炸裂する「地獄横丁」など、まだまだ紹介したい作品が後半にはテンコモリなのでこうご期待。という譯で、以下次號。