待ちに待った超話題のリレー小説がついに刊行、ということで手放しで絶賛したくなってしまうものの、正直讀後感は些か微妙でありましてこれについては後述します。
あらすじを簡単に纏めると、今回のリレー小説に参加したそれそれの作家の持ちキャラを登場させ、山荘で女モノの服を着てご臨終という奇怪な首無し死体の謎に挑む、というものです。
まず物語のはじめに掲げられた編集部からの「リレー小説を始めるに当たって」に注目で、これに曰く、
ご存じのように、推理小説の世界では洋の東西を問わず、リレー小説の試みが何度となく行われてきました。しかし、その多くは歌舞伎の顔見世興行のように参加作家の顔ぶれこそ楽しむことができるものの、推理小説としての出来は今ひとつと言わねばなりません。そこで我々は過去の実作を具に検討し、その欠陥をできうる限り少なくし、また最終回担当者以外は解決を考える必要がないという安直な姿勢を排除するために、一定のルールを設けることにしました。
しかし、リレー小説に一種のお祭りイベントのようなものを期待している自分としては、本格ミステリとしてもマトモなものをと表明しているこの編集部の意見にはどうにもノることが出來ません。そもそもが従来のリレー小説の「多くは歌舞伎の顔見世興行のように参加作家の顔ぶれこそ楽しむことができるものの、推理小説としての出来は今ひとつ」と殊勝なことを口にしてそうした顔見世興行的なところを否定しておきながら、実際に作中で活躍するのがその作家たちの持ちキャラであるとは如何なものかと思ったりしてしまう譯です。
そこまでストイックに振る舞うのであれば、こういった顔見世興行的な「豪華名探偵役キャラクター」の登場も御法度という縛りをもうける必要があったのでは、とか、そもそも本格ミステリには作者が意図し、設計した絵図がまずあってそれを構築していく作業というものがある譯で、後走者の作家が全体の設計図を知らないままにバトンを引き継ぐという形式のリレー小説にそういった「推理小説として出来」を求めるのがちょっとアレではないのか、とか色々なことを考えてしまった自分がもう最初から本作をキチンと愉しむことが出來ない負け組であることはもう確定。
そんな譯で、そもそもがシッカリとした本格ミステリを共同作業によって作り上げるというのが本作のリレー小説の大きな眼目であるゆえ、リレー小説というものに「いかにハジけ」「いかに脱線し」「いかにバカをやるか」、そして最終ランナーがそれらのアレ過ぎる大風呂敷をいかに回収するかをニヤニヤしながら期待するという「讀み」は嚴禁でありまして、実際、本作で冒頭に提示される謎もシッカリとした解決を念頭に入れてか、非常にシンプルなものとなっています。
メンバーの布陣も法月氏をはじめ、いかにも実直路線を狙ったものとなっており、編集部の言われる「推理小説としての出来」をまず考えてものであることが感じられるものの、それでもこうした編集部の期待を無視してハジけてしまう輩が出てきてしまうのがリレー小説としての面白さでもありましょう。今回はこのイベントから有栖川氏が執筆を辭退してしまうというリアル世界でハプニングが発生、その穴を埋めるために法月氏が活躍してみせるところも後半の見所のひとつでしょう。
物語は、ナディアを語り手に硬派な雰囲気で始まる笠井編でスタート、しかし先に述べた通り、ここで提示される謎は女物の服を着た首無し死体、という実直路線でありますから、例えば怪作「堕天使殺人事件」などに比較するとこちらとしては今ひとつノれないというか、些か複雑な気持ちを抱いたまま讀み進めることになる譯ですが、この後のバトンを引き継いだ岩崎氏はナディアのシリアスな語りを大転換。
そのあまりのギャップと脱力ぶりに、怖い顔をしながら岩崎氏執筆の第二編を讀んでいる笠井氏を思いうかべながらニヤニヤするのもアリながら、この岩崎氏が大きく軌道変更した路線を續く北村氏も踏襲して、おフランス風味ミーツてるてる坊主の見立て殺人という奇想を大開陳、それでも「赤い死」を登場させてシッカリと笠井氏の物語世界へと繋げてみせるところは流石です。
岩崎、北村両氏の醸し出すどこかほのぼのした雰囲気を若竹氏も引き継ぎながらナディアの語る奇妙なコロシという小ネタも添えて、過去の白骨死体と現在進行形の事件を連關させてみせるところもうまく、大ネタでハジけることはないとはいえ、それでも引き込まれてしまうのはやはり読者の引きを心得た物語の転がし方の旨さゆえでしょう。
個人的にはここまでの法月氏の伊達男ぶりには苦笑至極で、このキャラはいくらなんでもなんて考えていたら色々なところでこれらのキャラ立ちに絡めた企みが明らかにされていくのが法月氏の章で、様々なペダントリーを開陳しながら物語は次第に佳境へと近づいていきます。
で、いよいよ大トリの巽氏がどんな技巧で見せてくれるのかと期待しながら最終章に進んだのですけど、――後書きに書かれた「評論家的な発想」によって書かれた解決編では、現代本格における大ネタを交差させながら、絡み合っていた個々人の思惑から事件の構図をあぶり出し、さらにはそこから狂氣の論理によって歪んだ世界を構築してみせるという贅沢ぶり。確かに「論理の蜘蛛の巣の中で」の著者ならではの、現代本格における技巧を多分に意識したつくりとなっています。
ただ、實をいうとこの推理に大満足出來たといえるかどうかという正直複雑な気持ちでありまして、その現代本格の技巧によって「復讐」の意図を反轉させ、さらにはそれが事件の展開されていた世界をもひっくり返してしまうところや、各人のバラバラな思惑を論理の糸によって結びつけひとつの大きな構図を構築してみせるという結構は、いうなれば「論理の蜘蛛」の中ですでに語り尽くされた内容ともいえる譯です。
なので、自分の中では本作の謎解きは素晴らしいものなのだけども、その内容はあくまで「論理の蜘蛛」「以前」の物語として、という注釈をつけながらの評価ということになってしまうカモしれません。
しかしそれでもその前の章に投入されていたネタを巧みに回収しつつ、さらには各のキャラをしっかりと立てながら見せ場を作り出してみせるという小説的技巧は見事で、この中では特に七海嬢の「わたしの方が、人間の意地悪な部分にちょっとだけ早く目が届くってことなんだ」が最高にツボでした。さらには最後にあの人の手紙をもってきて、事件の発端となりえたあるものの眞相を明かしてアレしてしまうという、眞相開示の課程で解き明かされる「復讐」の意味と照応させた幕引きも見事です。
――絶賛は出來ないと最初に言いつつ、何だかんだいって巽氏のスマートな力業にやられてしまったというのが正直なところでしょうか。リレー小説特有のドンチャン騒ぎのごとき愉しみどころは薄いものの、「自分の小説を書くだけだ」という巽氏の言葉通りに、すべての混沌を現代本格の技巧によって画然とした構図に纏め上げて自らの小説世界へと昇華させてしまった氏のうまさを堪能するのが吉、でしょう。
それでも個人的には「堕天使殺人事件」の芦辺氏の方がツボだったりするのはキワモノマニアの性、ですかねえ(苦笑)。