第一回島田莊司推理小説賞入選作。受賞作となった「虚擬街頭漂流記」が二一世紀本格を極めた未来志向の本格だとしたら、本作は、黄金期本格の風格を奇天烈なトリックによって先鋭化させた逸品ということが出來るでしょう。
前に話を聞いたところ、林斯諺氏はアンマリ日本の新本格は意識していないようで、かつての黄金期本格をミステリの原体驗として、こうしたコード型本格の作品をものする氏のスタンスは、日本の新本格作家と同一線上に語っていいのカモしれません。ただ、逆にいうと、古典リスペクトの新本格が技巧を先鋭化させていった結果、向こう側に突き拔けてしまったような奇天烈ぶりよりは、純粋にコード型を嗜好した氏の長編は、現代本格として見た場合にはその方法論に賛否両論と分かれるような気もするのですが、いかがでしょう。
実際、御大の選評などを読むと、こうしたコード型本格の風格を純粋にトレースした作品は、やや否定的にとらえられているものの、個人的には、ここまで奇天烈なトリックと細やかな伏線を凝らしてくれればノープロブレム。その壮大なトリックと複数の謎があるひとつのピースによって一気に繙かれるという作風は、「人狼城の恐怖」や「時計舘の殺人」を彷彿とさせます。
今回は古典リスペクトの雰囲気を少しでも感じていただくため、長い長いあらすじを纏めてみました。
大企業オーナーの紀思哲が、奇妙な手紙を受け取ったのがすべての事件の発端だった。その手紙こそは、紀思哲がコレクションしている哲学家の草稿を盜んでみせるという、怪盜エルメスからの大胆不敵な予告状だった。紀思哲は別荘である冰鏡荘をエルメスとの決戦場とし、探偵である林若平に草稿をエルメスの手から守ってもらいたいと依頼する。こうして林若平は他の招待客とともに冰鏡荘で数日を過ごすこととなった。
冰鏡荘は三角形のかたちをした三階建ての建物で、左右を岸壁に、入り口部分は丘陵に囲まれている。そして正門から入ったところに広がるロビーには神々をかたどった大きな彫刻像が五体、置かれている。
冰鏡荘を訪れたその日にさっそく第一の事件が発生する。マジシャンである劉益民が招待客の持ち物である携帯電話を瞬間移動させるマジック・ショーを披露した夜のこと、展覧館の二階にある蝋人形館の棺桶の中で、劉益民の妻である蕭沛琦の死体が発見される。死体の手にはJohn Dickson Carr の”The Burning Court”が握られており、劉益民のシルクハットが置かれていた。さらに現場には犯人の手になる “Jack the Impossible”の署名も残されていた。さらに不思議なことに、死体を発見した人物に連れられて若平が現場に駆けつけてみると、蕭沛琦の死体は棺桶から消失してしまっていたのだ。
若平は部屋へ戻り、携帯電話を使って外部に連絡をとろうと試みるが、招待客の荷物が何者かに手によって盜まれてしまっていた。そして再び蕭沛琦の死体があった蝋人形館へと戻ってみると、棺桶のなかには再び死体が現れる。しかし死体の手に握られた本はそのままなのに、今度は劉益民のシルクハットだけが消えてしまっている。
さらに不思議なのは、この殺人が発生したあと、展覧館のロビーに置かれていた五体の彫刻像のうちの一体が移動されていたのが発見される。巨大彫像の移動という不可解な現象は蕭沛琦の殺人と関係あるのだろうか?……
館の内部で殺人事件が起こったことに惑乱する招待客たち。しかしここを出ていこうにも、外界へと通じる隧道は爆破され、自分たちの荷物は盜まれてしまっている。さらには不可解なのは、それぞれの部屋の中に配られていた髭剃りなどの洗面道具も同時に盜まれていたことだった。またこの爆破に関しても奇妙なことがあった。隧道が爆破されたとき、展覧館の二階三階にいた者たちにはその爆音がまったく聞こえていなかったというのだ。
”Jack the impossible”――『不可能ジャック』とは何者なのか。彼は現在台湾社会を震撼させている連続殺人鬼だった。彼は、あたかもミステリ小説に登場するかのような不可能犯罪を成し遂げたあと、犯行現場に、S.S. Van Dine “The Kennel Murder Case” 、Paul Halter “The Night of th Wolf”、Gaston Leroux “The Mystery of the Yellow Room” といったミステリ小説とともに、自らの署名を書き残していくのだという。
怪盜エルメスのみならず、いま、この館の中には連続殺人鬼もいるというのだろうか? そして『不可能ジャック』は館にいる彼らに対して、第二の殺人を行うとの犯行声明文を発していた。『不可能ジャック』は不敵にも、展覧館の入り口と二階、三階に見張りを配置しておき、この挑戰状を受け取った顧震川は一人でロビーにいろと要求する。建物の三カ所に人を配置して監視をしておけば、ロビーのなかには犬猫一匹たりとも入ることは出来ないだろうが、自分はそのなかで彼を殺してみせると『不可能ジャック』は告げる。
館の招待客の不安は的中し、第二の殺人が発生した。『不可能ジャック』の予告通り、展覧館の周囲には見張りがいたにもかかわらず、誰も出入りすることが不可能なロビーにおいて顧震川は銃殺体となって発見される。しかも部屋へと通じる出入口はすべて施錠されており、逃走経路となるべき通路には見張りもいた。いったい犯人はどうやって現場へと近づき、犯行を遂げたあと、逃走したのだろうか? そして第一の殺人と同様、死体の上には Ellery Queen “The King Is Dead” が置かれていた。そして、ロビーに置かれていた別の一体の彫像が動かされているのが発見される。
失踪したマジシャン劉益民の行方は依然として知れない。館の中をすべて捜したというのに、彼の姿はどこにもないのだ。真犯人は彼で、館と外部とを何らかの方法で行き来しているというのだろうか? だとしたらそれはどうやって?
事件の調査が進むなか、林はメイドである梁小音から奇妙な話を聞く。この館の主人である紀思哲は大変な潔癖性で、部屋の片付けには異常なほどの執着を見せている。取り出したものは必ず元のところに戻しておくようにと厳しくいわれていたにもかかわらず、ある日、彼女はグラスを割ってしまった。そのことを主人に告げなかったにもかかわらず、不思議なことに、翌日には割れたグラスは元通りに復元され、元の場所に戻されていたというのだ。この不可解な現象は今回の連続殺人事件に関連しているのだろうか?
事件は再び発生した。無言電話を受け取った紀思哲が電話の元をたどっていくと、その部屋は招待客のひとりである徐于・江の部屋だった。だがそこに彼女の姿はなく、「巨人像の肩を見てみるがいい」とだけ記された紙が残されている。いわれた通りに彫刻像の置かれているロビーへと駆けつける彼ら。そこには大テーブルの上に俯せの格好で絞殺された彼女の死体があり、傍らには “EQMM”が置かれていた。そしてまたもやロビーの別の彫刻像が動かされているのが発見される。
さらにその翌朝のこと。今度は皆が睡眠薬で眠らされているうちに、メイドの梁小音が展覧館のロビーで死体となって見つかった。第一の殺人から第四の殺人が起こるたびに移動された彫像のなかで、唯一元の位置に残されたままだったその像は、まるで雷でも落ちたかのような状態に破壞されていた。無惨なかたちに押しつぶされた梁小音の死体は、彫像の台座の下にあり、その傍らには Joseph Commingsの短編 “Banner Deadlines”が置かれていた。そして本のタイトルの部分には”Jack the Impossible”の署名が――。
そして最後、マジシャンにあてられていた部屋からは彼の死体とともに遺書が発見される。遺書には「自分こそが 不可能ジャックだ」という自白の言葉が綴られていた。一連の連続殺人事件の犯人は本当に彼だったのだろうか? ……
解決の糸口を見いだすことができない探偵、若平。しかし、館に招待されていたアメリカ人女性ジャーナリストであるリディアとの会話から、若平は一連の事件のトリックのヒントを得るとともに、すべての事件の真相に繋がるトリックを見破ったのだった。そして彼は生き残った三人、館の主人である紀思哲、李勞瑞、リディアを前に自らの推理を語り始める……。
――と、こんなかんじでありまして、もっとも御大は、二階堂氏や綾辻氏ではなく、別の作家の名前を挙げていたわけですが、あらすじにざっと眼を通すだけでも、本作がそうした過去の傑作群にガチンコで勝負を仕掛けた作品であることは明快で、実はこの作品の解決部分の全訳が手許にあったりして、このトリックの奇想を詳しく語りたい誘惑にかられてしまうわけですが、そうしたトリックの奇想もさることながら、個人的には敢えて怪異の樣態をとらずに細やかな謎をいくつも提示しながら、それを推理のプロセスにおいて、あるピースをひとつ当てはめるだけで一気にすべての殺人のハウダニットを解き明かしてしまうという見せ方が素晴らしい。
前にも書いたかと思うのですが、二次選考の過程では、選考委員から「トリックが複雑すぎる」という指摘もあったとのことですが、実をいえば、その「複雑」さというのは、このトリックをミクロの視点から見た場合に感じられるに過ぎず、殺人事件の「全体」を俯瞰すれば、本作に驅使されているトリックは非常に分かりやすく、それをまたタイトルに照応させて大胆な伏線としている外連も秀逸です。
真犯人像に關していえば、「雨夜莊謀殺案」のほうがブッ飛んでいるものの、あの作品に用いられた趣向をさらに推し進めた帰結として、本作のトリックが編み出されたのだとすれば大いに納得で、敢えて「後ろ向き」本格を目指すなかで古典から新本格へと線引きされた風格の延長線上にトリックの奇想を打ち立てた作品としては、これもまた2009年の台湾ミステリにおける大いなる収穫といえるのではないでしょうか。