昨日取り上げた「眩暈を愛して夢を見よ」は作中作と重層するテキストが混在した構成がウリでしたが、こういう作中作を凝らしたミステリっていうのはどうにも偏屈で奇矯な作品になってしまうことが多いようです。
傑作、名作、怪作といろいろありますけど、名前の知れたところではまずこれを挙げない譯にはいかない中井英夫の「虚無への供物」、そして竹本健治の「匣の中の失楽」。更にミステリ史を遡れば、夢野久作の「ドグラ・マグラ」とこんなところでしょうか。
しかしこの三作、いずれもアンチ・ミステリだの變格だのと樣々な言葉で語られることの多い傑作ながら、これらを本格ミステリとして見ている人は少數派でしょう。
作中作というのは魅惑的な素材ながら、どうにもこの毒にとらわれると、端正な本格ミステリから逸脱した物語に仕上がってしまうようです。で、この毒に思いっきりアタってしまうと、昨日取り上げた「眩暈を愛して夢を見よ」のごとき「傑作?それとも怪作?うーん、……微妙……」というような作品になってしまう譯です。
では、とここで作中作は本格ミステリとは相容れないものなのか、そして作中作が釀し出す愉悦を端正な本格ミステリへと昇華させることは不可能なのか、と考えたくもなりますよねえ。
いやいや、そんなことはありません。作中作という複雜な構成を持ちながらも、當に本格ミステリでしかありえないような傑作も存在します。その希有な例が今日取り上げる本作で、……ってちょっと前置きが長かったですか。
本作は「猫は勘定にいれません」のtake_14さんをはじめとして、すでに多くの方がレビューをしておられます。
文庫化からかなりの月日が経過した今になって本作をレビューするのもアレなんですけど、まあそこはそれ、第十二回鮎川哲也賞を受賞したこの傑作をいつかは取り上げなくてはいけない譯で、壞れまくった「眩暈を愛して……」を比較対象としながらこの時期に讀み比べてみるのも良いかなと思いまして。
作中作を活かした構成という點では「眩暈を愛して……」と同じなのですが、本作の場合は、三重の美しい入れ構造になっているところが特徴です。
「虚無」にしろ「失楽」にしろ、作中作の虚構と小説内の現実である事件とが混沌としていく展開が素晴らしい譯ですが、上にも述べた通り、この虚實の反転という構成に婬すると本格ミステリに仕上げることは出來ません。本作の場合、この虚實の「反転」を極力抑えて、入れ子の重層構造に着目しているところが良いんですよ。
「プロローグ」から「宴への招待」までの、いうなれば表層の部分から、作中作である「手記」へと進み、さらにその奥にあるもうひとつの作中作「イギリス靴の謎」まで至ってようやく舞台の謎は揃うという趣向が洒落ています。そして美しい。
この物語の最も奥にある「イギリス靴の謎」。そこに描かれている事件も勿論重要なのですが、本作の場合、このテキストそのものに隱された謎を暴こうとしていく展開がいいんですよねえ。このあたりは「眩暈を愛して……」の第三部とまったく同じです。あちらも作中作に書かれてある内容と現実を比較しつつ、「何故作者はこのように書いたのか」というかんじで、謎解きを進めていきました。
本作もここで一時、作中作という構成が必然的に孕んでいるメタの魔力にぐっと傾きそうになるのですが(ここで傾きまくってしまったのが「眩暈を愛して……」ですな)、作者はあくまで冷静でした。登場人物たちが推理を進めていく過程で、この上の層にある小説内の事実が次々と暴かれていき、謎が解かれた刹那に登場人物たちのいる層の事件の眞相も明らかにされるという展開がとにかく光っています。
本作はそんな譯で、かなり凝った仕掛けに衒學的な要素も絡めて魅力的な物語に仕上げられています。しかしロンギヌスの槍が出て來たときには、つい最近讀んだ作品のイヤーな思い出が頭を掠めてあわわわ、……となってしまったのですけどまあそれは個人的な感想でして、凝りに凝った本格ミステリを所望している方にはまさに絶品ともいえる作品であることに違いはありません。
あとがきでシャーロックホームズ・クラブ會員の方が本作の瑕疵に鋭いツッコミを入れているようなのですが、ホームズといっても學生時代にかじった程度の知識しか持ち合わせていない自分にはまったく問題ありませんでした。それよりも寧ろ、この話は壯大な物語の序章に過ぎない、みたいなかんじで終わらせておきながら、未だ「グーテンベルクの黄昏」がリリースされていないということが大きな不滿ですね。
普通こういうのって、本編(つまり「グーテンベルグの黄昏」)が出るのと時を同じくして文庫落ちするみたいな賣り方をしませんでしたっけ。
アマゾンで作者を名前を検索しても、本作のほかにはトンデモ本とか植物病理學だのというコ難しい本しか出て來ないし、いったいこの間作者は何をしていたのか、……本編の登場を當に「期して待ちたい」氣持で一杯です。文庫のジャケ帶には今年の夏に刊行予定と書いてありますけど、もう八月ですよ。本作が單行本でリリースされてから三年も経っているんですから、創元推理編集者の方も頑張って作者の尻を叩いていただかないと。
さすが鮎川哲也賞ということを感じさせてくれる、端正な本格ミステリ。おすすめです。