前作「天使の眠り」によってひとつの頂點を極めた岸田氏の最新作。ミステリ・フロンティアからの一册ということで、何となくミステリ的な仕掛けを壯絶な物語の中へと巧みに融合させた「天使の眠り」よりは人工性の際だった「出口のない部屋」に近い風格ではないかな、なんてある種の先入觀を持って挑んだのですけど予感は的中、個人的には「天使の眠り」のような作風を求めていた自分としてはアレながら、それでも十分に愉しむことが出來ました。
物語は、どうにも自分の幼年期の記憶に疑いを持ちながらアイデンティティの搖らぎに戸惑う色覚異常のボーイのパートと、妻子に逃げられた男から依頼を受けてその女を捜す探偵の二つのパートによって進むという構成から、これまた「出口の部屋」のようなアレ系の仕掛けが炸裂する物語を想像してしまうものの、本作では密室殺人もシッカリと添えて、原理主義者のマニアにも色目を使った配慮に拔かりありません。
岸田ミステリというと、イヤ女とダメ男のキャラがふんだんに盛り込まれたB級テイストを期待してしまうのですけど、本作では「天使の眠り」という傑作を通過した後ゆえか、そのあたりの雰圍氣は稀薄で、確かに最後に明らかにされる犯人のベタにアレな造詣など、昔の作品らしいところも殘しているとはいえ、殺人事件とボーイの過去を追っていく探偵姐御と純粹ボーイ君のコンビなどは、ごくごくノーマルのミステリ作品にも登場しそうな清々しいキャラでありますから、イヤっぽい登場人物ばかりでどうにもアレなお話みたいだし、……なんてかんじで、今まで岸田ミステリを手に取ることを躊躇っていた初心者も容易に手に取ることことが出來るのではないでしょうか。
本作では色覚異常や遺伝子といった二十一世紀ミステリ的にも活用しえるネタが事件の謎の中心に置かれているとはいえ、謎解きにはそれほど密接に結びついている譯ではありません。それ故に後半、姐御が犯人を前にして推理を開陳していく場面では、多くの謎がやや驅け足に語られてしまうところが殘念といえば殘念で、このあたりの専門知識の操作についてもう少しうまく捌いてくれればと思ったりしたのですけど、いかがでしょう。
寧ろ伏線や誤導を行う技巧としては、章題に「自己を消す者たち」とある通りに、複數の人物が名前を変えまた顏形を變えているところが、ボーイの過去へと繋がる要素を曖昧にしているところなどに光るものがあり、また一連の事件の重要な鍵を握っているとおぼしき人物の矛盾した言動の眞意が解き明かされていく部分には大いに感心した次第です。このあたりの女心の機微をミステリ的な仕掛けに絡めて描き出す技巧は岸田ミステリの十八番で、大いに堪能しました。
ただ、ここでもまたまた不滿というか、いろいろと考えてしまったのが、この事件の眞相を知っていながら矛盾した言動を繰り返していたとある人物の描き方でありまして、「天使の眠り」ではこの事件の中心にいた人物の「無償の愛」という壯絶な愛のかたちを、巧みなどんでん返しによって明らかにしてみせたところが素晴らしかった譯ですけど、本作では物語の中心へ運命に翻弄されるボーイを配して、この人物を事件の後景に退かせた結構に、岸田氏が本作のなかで描こうとした樣々なことをいろいろと詮索したくなってしまうのでありました。
おそらく意図としては、主人公のひとりであるボーイのアイデンティティの搖らぎに、「自己」を消して生きていくことを決意した登場人物たちを対照させることで、ボーイの心の変転を描こうとしたのではないかなと推察されるものの、個人的にはやはり上に述べた人物の心の動きと、「天使の眠り」とはまた違った、この人物の壯絶な愛のかたちをもっと深く描いてほしかったなア、と感じてしまいました、――というか、もしかしたら「天使の名前」でこのあたりのことはもう描き盡くしてしまったので、岸田氏の關心が新たな方に向かってしまったのカモ、とも推察されるものの、このあたりが次作でどう表れてくるのかに期待したいと思います。
そしてこうした登場人物の心理の描き方などよりも、普通のミステリファンであればまず氣になってしまうのが密室トリックだと思うのですけど、このあたりはまあ、あくまでお約束みたいなかたちで事件に添えてみたというかんじの風格でありまして、現場に猿がいたり、ゴムが落ちていたりと、「とりあえずそのトリックの詳しいところはよく分からないけど、犯人が何かやって鍵をかけたんだろうなア」と感じてしまったところで個人的にはもうアレで(爆)、それでも日々密室トリックのネタについて色々と考えたりしているマニアであれば、本作のトリックにもある程度は滿足できるのカモしれません。
岸田ミステリの魅力はこういったベタベタな「トリック」にあるとは思っていないので、密室トリックやアリバイ云々よりも、やはり連続殺人事件の全体に凝らされたハウダニットや、惱めるボーイと探偵姐御のパートが次第に連關を見せていくなかで明らかにされていく事件の骨格に注目した讀みをするのが吉、でしょう。
驚愕度という点では「天使の眠り」や同じミステリ・フロンティアからリリースされている「出口のない部屋」のほうが上のような氣がするものの、岸田世界の住人としては異色ともいえる清々しい探偵姐御と純粹ボーイの造詣など、今までにないノーマルな要素が増えているところは、岸田ミステリを多くの讀者に手にとってもらえる方向として評價したいと思います。それでもキワモノの風味がイッキに減ってしまったところや、イヤキャラの減少が個人的にはアレながら(爆)、岸田ミステリの入門作として広くオススメできる佳作といえるのではないでしょうか。