今だとミステリのエッセイ集といえば、話題に上るのは「アヤツジ・ユキト 1996-2000」と「アヤツジ・ユキト 2001-2006 」の二册かと推察されるものの、おそらくはヒッソリと本屋で平積みになっている本作も見逃せません。
キワモノマニア三大神の一人である日下氏絡みということもあるのですけど、ジャケ帯にも添えられたミステリに關する刺激的な文章も素晴らしければ、大乱歩や高木氏の回想も味わい深い。
構成としては全体を大きく四つのパートに分けておりまして、氏の推理小説に關する考えや思い出を記した「探偵小説の神よ」、自作について語った「自作の周辺」、推理小説作家を中心に筒井康隆や阿佐田哲也などの個性的な作家についての思いを綴った「探偵作家の横顔」、そして自らの生い立ちも含めた自分語りの中に氏が生きた時代の重みを感じさせる「風眼録」。
探偵小説についてて語られている内容も、これは「水面の星座」「論理の蜘蛛の巣」以前の考察でありますから非常にシンプルなものながら時にははっとさせられるような指摘も多々あって、そこにユーモアの風味をしっかりとまぶしてあるところが風太郎節。
例えば「探偵小説の「結末」に就いて」の中で、探偵が最後に謎解きを行うラストシーンのバリエーションについて述べているのですけど、「実際上、探偵小説の名作の大半は、まず犯人が指摘されて、あとで探偵氏がストーヴにあたりながらボンクラどもに長ながと講義をやるといったものが多い」なんて指摘には、そのシーンが頭に浮かんで思わず苦笑してしまいます。
また「シャーロック・ホームズ氏と夏目漱石氏」で、島田御大の「倫敦と漱石ミイラ殺人事件」を思い浮かべてニヤニヤしたりしていると、「変格探偵小説復興論」では、探偵雑誌が賣れない現状について、これからは本格を少しばかり控えめにして様々な趣向を凝らした変格ものを取り上げてみてはどうだろう、という提案を試みているのですけど、今讀むと、昨今のミステリ雑誌の低迷や「容疑者X」騒動などを色々なことを思い浮かべてしまいます。
で、ジャケ帯にもある「筒井康隆に脱帽」の文章なのですけど、以下、簡単に引用すると、
かつて私は自分の作を「アイデアだけだ」と或る人に評されたことがある。これを私は悪口とは受け取らない。アイデアというものが大変なものであることを充分に知っているからだ。推理小説の価値など七分以上それにかかっているといってさしつかえない。私をアディアだけだと評した人の小説は、そういうくらいだからアイデアなど論外においていることはいいとして、私から見ると、語るに値しない男の人生なるものを凡庸鈍昧な筆で書いたものに過ぎなかった。小説というものは何もそんな風に人間や人生を描かなくてもいいのである。いや、全然人間や人生を描かなくても、人間が読んで面白い小説もあっていいのである。
これを讀んで「へエ、それみたことかい。だから本格ミステリではトリックが全てであって人間を描く必要なんかないんじゃねえか。人間を描くとかそんなクダラナイことをブツブツいってるロートルは死ねばいいのに」なんて安易に考えてしまってはいけない譯で、「人間を描く」つもりなどなくても素晴らしいアイディアを突き詰めた結果として「人間が描けて」いるという小説が風太郎ミステリだったりするのはご存じの通りで、特にこの指摘の中では「語るに値しない男の人生なるものを凡庸鈍昧な筆で書いたものに過ぎな」いというところに個人的には注目、でしょうか。
何も人間を描くのは、「泣ける」「感動する」「いい人」「人生の深奥」ばかりである必要はない譯で、先日取り上げた「男性週期律 セックス&ナンセンス篇―山田風太郎ミステリー傑作選〈7〉 」に収録されている作品にしても、ナンセンスと脱力とクダラナさを突き詰めた結果として人間という存在が描かれてしまっているという風格ゆえ、このあたりの結果を無視して字義通りに風太郎語録の中からここだけを取り出して云々するのはちょっとアレ。
さらに言えば、この言葉も風太郎語録の中でこそ説得力がある譯で、例えば同じことを「彼は残業だったので」と「撲殺島への懐古」の作者である松尾氏が蕩々と述べても果たしてこれだけの重みをもって世間に受け入れられるかというと、……ってまあ、松尾氏が描くノータリンでクズな人間たちも嫌いではないのでここで例として取り上げるのは、ダメミス、クズミスマニアとしては些か躊躇いがあるものの、とりあえず一般のミステリファンの方には説得力があるかなア、ということで(爆)。
そのほかエッセイで定番の暴露ネタでは、「私の江戸川乱歩」の中で、大乱歩と酒を飲みにいった時のエピソードを書いていて、かの大乱歩が「新宿の最下等の青線区域の二階」で「まっぱだかのパンスケを膝にのせて大悦していられたり」していたというから吃驚ですよ。
乱歩ネタでは、そのほかにも、戦前と戦後では乱歩のキャラが全然違うのは何故、というところからその理由を推理していくくだりがあって、この「妖説」には完全に口アングリ。戦後はどちらかという人見知りだった乱歩が戦後になってからは「積極的に会合に出られ、若い私たちが圧倒されるほど陽気に、柳暗花明の巷で盃を傾けられる人」へとキャラを転換させた理由というのが、風太郎曰く、
そこで新説にして妖説が、私の脳中に浮かぶのである。
それは乱歩先生のおつむのことである。
あの陸離たる光頭は、いつごろからはじまったのか。乱歩さんのお若いころの写真を何枚かつらつら見ても、そこにフサフサした髪のあった写真をついに一枚も発見することが出来ない。
私たちの知っている乱歩さんは、むろん決して線の細い人ではなく、ヌーボーとして大人の風格のある人であったけれど、といって身辺を意に介せず、豪放磊落、呵々大笑するといった豪傑風のタイプではなかった。作家だから当然のことだが、一面非常に神経質なところもあり、事実相当なおしゃれであった。もし豊かな髪がその頭上にあったら、堂々たる美丈夫として形容して然るべき風采であったろう。
それなのにお若くして、つんつるてんなのである。
この肉体的特徴が、乱歩さんになんの影響も与えなかったか。
と若禿の煩悶が若い頃の性格を暗くしていたと推理、このあたりから大乱歩の隠れ蓑願望を敷衍してみせる超絶推理には脱帽です。ユーモアを交えながらも奇天烈なことを語ってしまう風太郎キャラもイッパイに満喫できるエッセイ集ともいえる本作、そのほか鋭い指摘に思わず唸ってしまう「双頭人の言葉」や、小説的な面白ささえ感じさせる「風眼禄」など、讀みどころも多い一冊で、マニアとしてはマストといえるのではないでしょうか。オススメです。