米澤穂信の古典部シリーズ、或いは昨日取り上げた三雲岳斗の「旧宮殿にて」。こういう破綻のない端正なミステリを讀めるっていうのは本當に素敵なことなんですけど、こればかりが續くと偶には思いっきり壞れまくった物語を讀みたくなるというのだから、ミステリ好きっていうのは因果なものです。
で、壞れまくっている物語の典型として今日取り上げてみたいのが本作。
ジャケ裏のプロフィールにもある通り、作者の小川勝巳はクライムノベルの旗手として知られている譯ですけども、そんな作者の経歴のなかでもまさに浮きに浮きまくっているこの作品、失敗作だの駄作だのダメダメだの、とにかく散々に叩かれまくっているようですねえ。
しかし惡食を自認する自分にとってはまさに美味なる御馳走でありました。まあ、それでも好き嫌いが完全に分かれてしまう作品であることは認めます。
本作でまず言及されるのがこの複雜な多重構造でしょう。しかし今回あらためて讀み返してみた感想ですが、意外と單純な構成であることが判明して、少しばかり驚いてしまいましたよ。
それとこの物語は乾くるみの「イニシエーション・ラブ」と同樣、あの軽薄短小にして狂瀾の八十年代、あの時代を知る世代でないとこの物語に通底している空気をうまくとらえることが出來ないのではないかと思いました。つまり讀者を選ぶ、というか、作者の方から勝手に讀者を決めてしまっているというか。
壞れまくった登場人物、そして破綻すれすれ、というか破綻しまくっているように見える物語の構造などなど、一見したところ、いかにもメフィスト受けしそうな作風なのですけど、その実、あの八十年代を通過した世代でないと今ひとつこの物語が孕んでいる勢いにのれない、というあたりが殘念というか、勿体ない。
全体は三部構成になっており、最初と最後に鈴木久恵という女性が公園で女性の首吊りを目撃するシーンが描かれています。この冒頭で、首吊りの女性が誰なのかという謎を提示しつつ第一部が始まるのですが、ここからは一転して、須山という名前の「ぼく」、そして名前の知れない「おれ」、さらにはこれもまた誰だか分からない「わたし」の三つの視点が交錯しながら物語は進みます。
「ぼく」である須山はかつてヴァイラスというアダルトビデオの製作会社で働いていて、今はゲームセンターでアルバイトをしながらどうにか毎日を凌いでいるダメ男。そこにかつてヴァイラスのビデオで女優をやっていた里村リサから突然の電話があり、柏木美南の失踪を知らされます。
柏木美南は「ぼく」の高校時代の先輩にして憧れの女性だったのですが、「ぼく」はヴァイラスのビデオに出演者のひとりとして現場にやってきた彼女と再会します。そのあとも「ぼく」と美南はたまに食事をしたりという普通の關係が續くのですが、会社が倒産してから連絡が途絶えてしまっていた。……
そんないきさつから「ぼく」はリサとともに柏木美南を探すことになるのですが、その過程で、高校を卒業してから再會を果たすまでの間にあった彼女の辛い過去を「ぼく」は知ることになります。
そして彼女に凄慘な虐めを行っていたかつての關係者が、どんぐりころころの歌の見立て通りに殺されていくのですが、この犯人は果たして失踪した美南なのかそれとも、……第一部の展開を簡單に纏めてみるとこんなかんじです。
このあらすじだけを讀むと、いかにも普通のミステリのようなのですが、過去美南に關わった人たちの証言はそれぞれがばらばらで、果たして美南とはどのような女性だったのか、第一部を讀んだだけではもう頭が混乱するばかり。
この美南という女性、ミステリではお約束の謎めいた女の造型とも違っているんですよねえ。それぞれの証言者が口にする印象は非常にはっきりしていて、或る者は自意識過剰な女といい、また或る人物はいるのかいないのかよく分からない娘だったなどという。多面性といえば簡單ですが、相反する印象が混在していて、ひとりの人間としての畫然としたイメージがまったく沸いてこない女性なんですよねえ。
それでもこの第一部の語りの中心が「ぼく」である以上、讀者としてはひとまず「ぼく」の美南に對する印象を信じながら讀み進めていくしかないのですが、第二部に至って、物語は「ぼく」「おれ」「わたし」が交錯する語りに加えてさらに、美南が書いていたという小説までが登場して益々混沌としてきます。
「ぼく」が聞きこみを行っていく過程で、美南は、皆から嘲笑され虐めを受けていたことが明らかになっていくのですが、それは彼女が所属していたミステリイ・サークルでも變わらず、この第二部では彼女が書いたという小説が作中作として披露され、それに對するサークルのメンバーたちの酷評までもが添えられているのです。これがまた痛い。讀んでいて辛くなりますよ。
さらに第二部も後半に至ると、「ぼく」がアルバイトをしているゲームセンターで同じくバイトをしている軽部まいという女性のシナリオの斷片までもが加わります。
この混在するテキストの間隙を縫うように、第一部で見られた文章の抜粋が、今度は「ぼく」の名前の小説であったことがほのめかされたりして、もうどれが現実でどれが虚構であるのか分からない混沌とした状態のまま、連続殺人事件の犯人が唐突に明かされます。この推理はいかにも京極夏彦のアレを連想させるのですが、當然作者は確信犯的にやっているに違いありません。
物語のなかで、美南の書いた小説はサンプリング小説だと揶揄されるのですが、この言葉は、そのまま本作にも當てはまります。或る小説を連想させるようなシーンやアイテムが物語のあちこちに散りばめられているのですよ。
上に挙げた推理だけでなく、例えば第一部でふれられている「ボーンおじさん」の逸話や、第三部の最後の方で出て来る或る女性の妊娠について言及されるところなど、そのまま京極夏彦のアレやアノ作品を想起させるところもあったりします。美南の小説を酷評するところで名前が挙がっている連城や、或いは山田正紀のようなところもありますよねえ。
さらには虚構と現実が入れ替わるところなどは竹本健治のアレでしょうし、作中作とともに、その小説の一節がクラインの壷のごとく、そのまま本編のなかに流れ込んでいく仕掛けなどは、恐らく奧泉光の「葦と百合」を意識しているのではないかなと推察します。その意味では元ネタが分かっていないと、この第二部までの展開がサンプリング小説であり、作中人物の「誰か」による創作であるという作者の意図が伝わってこず、繼ぎ接ぎだらけの安っぽい物語だと受け取られかねない、というか實際このあたりが誤解されてしまっていて散々な評價を受けてしまっている譯ですが。
しかし本當の物語、すなわち作中作ではない眞實の「眩暈を愛して夢を見よ」が始まるのは第三部から。今度は第二部までの物語をそのまま虚構へと大きく反転させ、第二部のなかで殺された或る人物が探偵役となって再び登場します。そして更にはもうひとり、第二部のなかでは謎の存在だった男もこれに加わり、二人の間で推理合戦めいたものが展開されるのですが、このオチに莫迦野郎!と絶叫してこの本を壁に投げつけるか、それともニンマリとほくそ笑むかは讀者がこの仕掛けのネタ元を知っているかどうかにかかっていると思うのですよ。
ネタはすでに第一部でさりげなく言及されています。美南が好きなカラオケの曲に關係しているのですが、まあ、知らない人にはまったく分からないと思うので、文字反転せずにここで明かしてしまいますが、これは恐らく押井守の傑作「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」でしょう。
結局本作は新本格以降に登場した作品とはいえ、この物語は作者と同じ世代の讀者に向けられたものだと思うのですが如何。作者は昭和四十年生まれ、つまり「おニャン子」+「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」+「幻影城」の世代であって、「モー娘」+「エヴァ」+「メフィスト」ではない譯ですよ。
このあたりで非常に讀者を選ぶ物語になってしまっているところが何とも惜しい。素晴らしい怪作乍らも、多くの讀者に理解されることなく消えてしまう運命にある小説といえるでしょう。
新潮ミステリー倶楽部という、由緒あるシリーズからリリースされた作品だというのに、四年経った今に至っても文庫落ちしていないようですし、このまま、作中の柏木美南のごとく「この世になかった」ものとしてミステリ史の闇に葬られてしまうのでしょうか。嗚呼、勿体ないことです。