前回の続きです。何だか随分間が空いてしまったので、スッカリ忘れてしまっていた人もいるかもしれませんが、とりあえず第一回島田莊司推理小説賞に関する内容はこのエントリで一区切りつけたいと思います。前回は、受賞作である「虚擬街頭漂流記」の舞台となった西門町の散策から台湾大学での講演会についてレポートしたかと思います。で、この講演会を終えたあと、一行がどこに向かったかというと、猫空という山ン中にあるレストラン。とにかく山の奥の奥にあって、かつてロープウェイがあったという駅でタクシーを降りると、まだ時間があるというので歩くことになったのですが、このハイキングがなかなかの苦行でありまして、台湾蝉が喧しく鳴いている山道をひたすら登り、ようやく辿り着いたレストランの写真はこんなかんじ。
今回の島田荘司賞および島田荘司展の関係者が今回の成果やアジア本格について、翌日帰国される御大とともに語り明かす、――というのがこの夜の趣向でありまして、まずは受賞者である寵物先生ことミスター・ペッツの人柄についてひとしきり盛り上がったのですけど、御大とスタッフ曰く「創作に打ち込む姿勢と後進の育成の双方に力を入れた活動を行っている寵物先生は御大に似ている」と。
創作はもとより、後進の育成という点に関しては、例えば昨年の台湾推理作家協会賞での選考や台湾大学ミステリ研OBとしての活動などがありますが、ここから「異端審問官」の話なども交えて御大が話された内容の大意をまとめると、「溢れんばかりの才能がある人っていうのは、そもそも他人に嫉妬などしないし、他人が自分と違うというだけで排除したりなどはしない」とのことです。こうした話が出てくるまでにどのような会話が交わされたのかについては、まあ、色々あったということで。
で、話変わって、御大が受賞作「虚擬街頭漂流記」について評価していたのは、この作品における「本格の人工的な構造を用いて、人間の感性の感動を押し上げ」ているところでありまして、これは同時に御大の作風にも共通するところといえるかもしれません。
この「人間の感性の感動を押し上げる」という点についてここでも盛り上がったのは、やはり寵物先生の作風、――すなわち「泣きの本格」としての要素についてでした。このあたりは初日の茶芸館においても、受賞作や彼の短編「吾乃雑種」の結構を分析しながら御大が色々と話されたのですが、このあたりも御大のコメントの大意をまとめると曰く「寵物先生の小説には「泣き」のツボがある。彼はこのあたりを見事に会得している」と。
成田から台北までの飛行機の中で、御大は翻訳された「吾乃雑種」を讀まれており、「虚擬街頭漂流記」とこの短編の構造を分析した結果として、寵物先生の作品にそのような感想を持たれたわけですが、一方、二作を読むことによって明確に感じられる寵物先生のそうした作風に関して、御大が危惧されていたのが「ただこうした泣きの要素に安易に寄り掛かってしまうことで、彼の創作の方向が制限されてしまわないか」ということでありました。
このあたりについては、四日の授賞式のあとに二次選考委員の日本人が寵物先生に訊ねていたのですが、まず短編である「吾乃雑種」の「泣き」については、彼曰く「あれは狙っていった」とのこと。一方、「虚擬街頭漂流記」については「謎解きの帰結として、幕引きのシーンはあのような「泣ける」ものとなった」ということで、確かに「吾乃雑種」のラストシーンの「泣き」については少々やりすぎ感があったこともまた事実。しかし、そうしたところを意識してかまた無意識にか、本格ミステリとしての構造である「謎―推理」に注力した帰結として現出した「虚擬街頭漂流記」の「泣き」の要素はあくまで自然であり、「本物」であるということもいえるでしょう。
――というわけで、このあたりの説明を受けた御大とこれまたひとしきり寵物先生の作品はもとより、そのほかの台湾ミステリの作品について盛り上がったあとは、「次回」の島田荘司推理小説賞や御大の訪中などについて話し合われました。このあたりについては近いうちに皇冠から正式な発表があるかとも思うので、ここではこのくらいにしておきましょう。
で、もう少しこの「泣き」の要素について、島田荘司推理小説賞と絡めて話を続けます。今回一次選考を通過した十作の中で、こうした「泣き」の要素を供えた作品は二作あって、ひとつは受賞作である「虚擬街頭漂流記」で、もう一作は陳嘉振の「不實的眞相」でした。「不實的眞相」については、台湾大学での講演においても御大に質問が寄せられたりしたのですが、この作品の主題はズバリ、冤罪問題。社会派の本格ミステリとしても、一次選考通過作の中でも際立った完成度を誇っていたという点でも非常に印象に残った作品でもあります。
というか、個人的にはこの作品、かなり一押しだったりするのですが、……確かに二次選考においてはこうした社会派的な主題の提示そのものに否定的な意見も散見されたということですが、一方でこの作品については詹宏志氏も肯定的な評価をされていたということは、ここに記しておくべきでしょう。
物語のあらすじはは、――過去の冤罪事件に絡めて、かつて不当な判決を行った裁判官や警察関係者などが不可解な死を遂げる。しかしほぼ同時刻に行われた二つの殺人において、容疑者として浮上した人物には鉄壁のアリバイがあることから、この二つの事件に交換殺人を疑った検事や弁護士、そして人権団体の教授三人のラヴ・ロマンスを中軸に据えて物語は展開されていきます。
個人的に惹かれたのは、大人の恋愛という要素がこの事件に関わる人間模様を鮮明に描き出すとともに、冤罪事件の犠牲者たちの悲哀を通奏低音に、後半で展開させる「犯人」対「探偵」という探偵小説としては定式化されたシーンが逆説的な構図を伴って現出するところでありまして、トリックを仕掛ける「犯人」とそこへ「トリック」で犯人に応えてみせる「探偵」の対決シーンは正直、泪なしには読めませんでした。
この場面がこれほどまでに美しいのは、これが「トリック」という視点からは探偵小説的な構図を反転させたものながら、その勝負を決するものがトリック「そのもの」ではなく、本作の主題にも大きく結びついた人間の心理であるというところでしょう。個人的にはやはりロートルのミステリ読みゆえ、どうしても物理トリックよりも心理トリックの方が格上と考えてしまう自分でも、物理トリックがその帰結として作中人物の心理を突くという本作の仕掛けには脱帽で、この趣向だけでも本作は台湾ミステリ史に残る作品となりえたと感じた次第なんですが、……しかし、今回は相手が手強すぎました。
上に挙げたような「泣き」の本格としての要素から「相対的」に判断すれば、やはり「虚擬街頭漂流記」の方がその感動の度合いは勝っているともいえるし、日本の新本格から派生した大掛かりなトリックをさらに極限化させたともいえる「氷鏡荘殺人事件」の壮大な仕掛けと比較すれば、トリックそのものの驚きはやはり弱く感じられてしまいます。
ただ、ここで強調しておきたいのは、賞であるからこそこうした「相対」評価によって作品が判断されてしまうことがあるとはいえ、それはこの作品「そのもの」が上述の二作に比べて劣っているというわけではありません。賞から離れれば、依然としてこの作品が傑作であることに変わりはなく、個人的には入賞を逃した作品の中では一番、台湾のミステリファンに読んでもらいたい一作といえます。
土屋隆夫の「危険な童話」や「影の告発」が好きな人だったらマスト、といいたいほどの名品なのですが、そもそも土屋隆夫や笹沢左保が台湾のミステリファンにおいてはどのように受け入れられているのか今ひとつよく判っていないゆえ、このあたりは是非とも本作を読まれた台湾推理作家協会の作家たちの意見を聞いてみたいところです。
というわけで、前々から予告していた「不實的眞相」について語ることができたので、ホッと一安心、――と、そういえば「夢之砂漏」と並んで御大が興味を示された「輪廻家族」という作品があるのですが、これについても語った方が良いのかどうか……。まあ、今回はこのくらいにしておきます。